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by issei_tachikawa

イデオロギーについて(多元主義的立場からのイデオロギー終焉論

イデオロギーについて(多元主義的立場からのイデオロギー終焉論_c0219972_1412470.jpgwikipediaで検索するとなかなか良く勉強された方たちが気をいれて執筆されている。すっきりと読めてしまうので怖くなるくらい。最後の部分についてコメントします。少し長い引用ですが堪忍してください。

「〈前略)現代のような価値の多様化を認めている時代状況においてはイデオロギーは相対的に合理化して眺めることが可能で、政治的正当性の根拠は不毛な観念論争ではなく現実生活に即した実利にあるという主張がある。現代の知識人は自己のイデオロギーを諧謔的に意識化することで偽りの信念を見抜くことができ、それが行動に結びつくことはないと説かれた。
これに対しては主に二つの観点から誤りを指摘することが出来る。まずイデオロギーは語られていることだけにあるのではなく、行動や社会状況にも含まれている。つまりイデオロギーは人々がどう考えるかという問題ではなく、現にある社会状況に刷り込まれ事実関係を偽っていることがあり、イデオロギー的信条を実際は信奉していないのにもかかわらず、イデオロギーに奉仕していることがある。たとえばある種のイデオロギーを掲げた政策にそのイデオロギー性を認識しつつも実利を優先して迎合することはイデオロギー的目的に奉仕していることであり、イデオロギーから自由になっているとは言えない。また実利を最優先するこのような考え方それ自体がイデオロギー的である。実利や観念、社会状況、経済原理などはそれぞれ別次元の問題である。たとえばイデオロギーの含む世界観、倫理観は現実生活の実利とは関係ない場合が多いし、実利を優先するかそれとも他の何らかの観念を優先するかは個人のイデオロギー的な問題である。イデオロギーが価値の多様化の中でほかの何らかの価値の間に埋没するという主張は正しい見方ではないといえる。
(中略)現代社会のイデオロギーはより複雑で感知しがたいものとなっていると考えられているため、時代に即したイデオロギー分析が必要とされている。」

非常に含蓄豊かな文章だと思います。数日前にベトナム戦争についてのクラス討論でのぼくの立場を思い出しました。今回の原発事故についてたくさんの人と話合ってきましたが、改めてイデオロギー優先と受け取られてしまうことのないように、論点のポイントを以下の3点に絞って再考察します。
1つ なぜ原子力発電所に反対するのか、その根拠は何か、「洗脳」された「事実」からの解放
2つ 3.11以降の「事実」から何を学んだのか 感動した話(菊池、小出、中曽根、東京新聞) 幻滅(武田)
3つ 推進と反対の「交流」から何が生まれるのか

1つめから話します。エネルギーシフト提案理由でもあります。
①命を危険にさらしているからです。これだけでも十分すぎます。チェルノブイリの比ではない。何も知らない周辺の生き物達、現場作業者、原発周辺からの避難者、体内被曝者、その他世界中地球の生き物達の命が内部被爆の危険さらされ続けます。実質終わり無き被爆、プルトニウム半減期は2万4千年!
②地震だけでなく天変地異の予知は不可能に近いからです。もしも浜岡原発がやられたら日本は壊滅します。「5重の防御」「3つの安全」「定期検査」その前に竣工時の検査もいい加減な部分が多い。リスクが高すぎる。そしていざという時に支持した人々は現場には行かないのです。原子力安全委員は5月になるまで現場に行っていない。東電社長も同じ。
③原発無しでも電気は足りているからです。依存度30%という洗脳のウソがばれています。現在は、54基中稼動中は17基です。5月17日(火)の東電供給力は4500万kw、需要は3448万kw(ピークは4時)
④他と比べて安いというのは、意図的な計算に基づいていたことがわかったからです。
⑤10大電力会社による地域独占的な事業の構造、原発村といわれる利権の構造がようわかったからです。
⑥再生(持続)可能なエネルギーに転換する方が、安全・安心・安価・お得であることが証明されたからです。ただし具体的な提案はたくさん出ているので、2020年、2030年、2050年に何エネルギーを何%くらいに設備投資するか、その6w2h的な論議をさらにつめる必要があります。

2つめは、3.11以降感動した話の紹介です。
菊地洋一さんは、福島原発を造った技術者の一人。今は反原発活動をされています。たくさんのもろい点を正直に語っていますが、ぼくが感動したのは「4年間泊り込みで完成した瞬間=炉のふたを閉めるときに同僚と抱き合って涙した」という話です。これは重いです。
http://www.youtube.com/watch?v=gNWVljrvl3o
小出裕章さん(京都大学原子炉研究所)も元は原発に夢を託して研究を始めたのですが、1970年代前半で危険性に気づいて「反原発」に変っていく。3.11以降の講演会の冒頭で、「こうなってしまった責任はわたしにもあります。」といって声をつまらせていた。彼の目頭が熱くなっていた。
http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk
中曽根康弘さん(元総理大臣、自由民主党)。1950年代原子力発電推進の政治的な総責任者でした。正力さん、小林さんに依頼してマスコミを使っての推進論を展開してきましたが、今回『AERA』に反省の辞を執筆されています。立場は変りませんがこそこそ逃げたりしないところは評価しても良いと思いました。
『東京新聞』3.11以降は特にがんばっていると感じます。本来新聞の定期購読はしないイッセーも3.11以降は毎日読んでいます。

3つめの「交流」のアウトカムについて。新しい政治的な文化が生まれて欲しいです。実は古くて新しいというべきかもしれません。かって東大のバリケードのなかで、三島由紀夫氏と全共闘との討論会が組まれ、『美と共同体と東大闘争』が出版されました。議論すること、論争すること、イデオロギー闘争することは本質的に対象・目的・方法が違います。

本来の成熟した文化においては、時間をかけて対立する意見を出し合い、十分に論議をして意思決定=政策の実施が図られていくべきなのです。前提は相手の立場、相手の気持ちを向こう側から斟酌するやさしさです。「はなせばわかる原子力」であります。とことんお互いに話し合うべし。
by issei_tachikawa | 2011-05-18 00:38 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)