5感と社会革命の可能性 その2「嗅覚」(におい、嗅ぐ)
2011年 07月 26日
・アジア、アフリカ、南アメリカにいったことがある人は、多くがその土地の「臭い」をしっかりと記憶し、文章化もしているのではないか。人がまとまってくらすということは、匂う、臭うということと同義のはずなのだが、東京は無臭空間になれてしまっているので、たまに有臭空間に出会うと、何か不吉な予感になってしまうので少し怖い。この辺は今の時期書きづらいので、各自の想像にお任せします。
・いづれは昔の日本、江戸(時代)地域の研究をしてみたいが今は無理なので、1940~1960年代に遡ってみる。新宿の西口「しょんべん横丁」、なるほど臭かった。山手線の脇にある戦後の焼け跡みたいな飲み屋街なのだが、店は何処も狭いのでトイレがない。だからもよおすと客は外に出てタチションするしかないのだ。
あとは、公園のトイレ、家のトイレも臭ってた。しかし田んぼのあぜ道付近の「肥溜め」の悪臭は記憶がない。もしかして発酵していたのかもしれない。
・というと男っぽい話だが、花の匂いで復活するほろ苦い思い出というのもある。中学1年の時、卓球部先輩のNさんにほれていた。その人はくちなしの花の香りが大好きだといっていた。いっしょに練習するのが楽しみだった。毎日のように彼女といいなかになる妄想に苦しんだ。今でも道端でくちなしの匂いがすると、その記憶がよみがえってくる。これは初恋ではなくて、2回目の恋の話。連れ合いは金木犀にもせつない思い出があるという。
・ところで、嫌な臭い、好きな匂いというのを、意図的に変えられるのだろうか?または、誰かによって「自己変革」を迫られた時に、自分が我慢することで全体というか関係性を人間的な方向にかえていくことができるのだろうか?
・ぼくはその答えは有りだと思っている。臭いの背景、理由を考える、その人の人間性を知る努力をする、なれる、いっしょに生きて行く、などなど。臭いに耐えることの共同性も有りかなと思う。少なくとも男同士の場合はありである。次は、聴覚にいきます。