どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

土方(土工)と鳶(とびしょく)の思い出

さんきゅうハウスに、松本さんからいただいたお米(新潟コシ5kg)を届けにいくと、Tくんがいつものお弁当配達待機中だったので、少し話し込んだ。話題は、ゴキブリ、寄生虫、免疫力、花粉症、清潔すぎて免疫力を下げている日本の都会、薬と医者に頼らない生活、そして最後は資金形成の話になる。

「このままじゃーなー、いつつぶれてもおかしくねー。」といいながら話は土方とトビ(とび職)の話になった。2人に共通する体験で、話しても差しさわりがないからだ。

おれは20代に大学へ入り込む(再入学)ために受験勉強などで3ヶ月以上を使うので、日雇い労働でバイトしていた。今日思い出すのは以下のことです。
1.どんなバイト仕事だったの、何をしていたのか
2.プラスの記憶(面白かった、得した、はらはらどきどき、やってよかったなど)
3.マイナスの記憶(辛い、哀しい、腹が立つ、いやだ、思い出したくない、怖い)
4.今時の山谷、馬場労働者について
5.さんきゅうハウス活動とのつながり

1.立ちんぼとかふー太郎、日雇い、人足とさえいわれていた。職種は建築業の土木・足場請負。朝4時起き、高田馬場の職安(今のハローワークス)に向かうのだが、改札出ると手配師から「おいにいちゃん、かたづけ、よんごーで行かない?」と声がかかる。清掃で日当4500円と言うこと。1970年代なので仕事はやまほどあった。こちらでも選ぶ権利が生かせる状況だったので、適当にえらんでいるうちに小笠原建設さんとの縁ができて、主にそこへいくことになる。やっていたのは穴掘り、建築中ビルの清掃・ガラだし、コンクリ打ち、足場づくりと足場晴らし(解体)など。

2.いい金になった。1日4500円から15000円くらい。年収90万円くらいだったが工夫すればそれなりに食べられた。
野球と空手で鍛えた体はきつい筋肉労働で以前よりいっそうたくましくなった。40歳で立川生協(現パルシステム東京立川・八王子センター)の配達したが、「これじゃー運動不足になるなー」ともの足りなく感じたくらい。
コンクリ打ちの最中に、型枠大工さんと喧嘩になったが、結局こちらの言い分が通って5万円の解決金をとり帰りに全て飲み食いしてしまった。やるせないそのひぐらしだが気楽でもあった。将来への不安?なし!

3.帰りの電車で突然世話役から怒鳴られてびっくりした。「お前の顔なんぞみとーもない、声も聞きとーない」と真っ赤になっておこっていた。ぼくがあやまって落とした足場板が下にいた彼にぶつかりそうになったらしい。ここの部分はさしさわりがあるのでこの程度にしておきます。

4.今は仕事がないので辛いと思う。当時は派遣切り(というか派遣労働者と言う存在そのものが)はなかったし、ここを突破すればなにかあるという期待・予感みたいなのが日本・アジア・世界全体にあった。60年代のおれたちが提出した問題への解答が今またとわれているような気がする。

5.さんきゅうハウスに集まってくる人たちは多様な過去を背負っている。利用者・支援者・スタッフともに実に多彩な顔ぶれ、おれはハウスに顔出すとヤサ(マイハウス)に帰ったような気分になることがある。気は使うがなんとなくなつかしいのだ。これは応援していると言う感覚ではない。いったん底つき体験したものドウシの連帯感がオレを支えているような気がする。親鸞聖人、イエス、スメラオオガミ、コミューンイズムの神様がいっしょにやってくる。アイヌーンや大地の神(パチャママ)もいっしょだ。「みんな幸せになろうぜ!」
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by issei_tachikawa | 2013-06-07 15:23 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)