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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

京都大学熊野寮入寮から立川生協入協まで

京都大学には4つの学生寮(熊野、吉田、女性、院生用の)があったが、Mさんの反対を押し切って最も学生運動が活発だった熊野寮に入った。門の付近に立ち並ぶたて看板に郷愁をかんじつつも「研究が第1なのでヘタに運動にかかわるのは厳禁」と自分にブレーキをかける日々だった。
これはとても辛いことだ。理論は実践とのつながりにおいてのみ追求する価値があるという価値観は変らなかったので、研究だけに専念できない。これを弱さというか、血が騒いだというか、でもあほな自分がぼくは好きである。社会で現実に生起する問題の中に資本主義に内在する根本的な矛盾(使用価値と価値、物象化、労働力の商品化、市場競争が富の格差・偏在を拡大していく、不均等発展と一方における過剰生産と多数の貧困など)を解決する切っ掛けをさがすという手法は変えようが無かった。でも修士論文だけはなんとか書き上げたいという欲望と光州蜂起・三里ヅカや港合同労組などの自主生産運動に連帯して戦いたいという願いが毎日のように自分を葛藤の渦に巻き込んだ。
そんななかで前川先生には大変お世話になり、なんとか「モンドラゴン協同組合における生産組合の存立要件に関する考察」で修士は卒業。
自分よりひとまわり若き活動家に誘われて、四条河原町の「マラソン演説会」でマイクにぎったらもう自分はとまらなくなった。熊野寮でコンビブ集団をつくった。A棟の4回にすむ学生中心に最初は遊び半分でつながり、次第にまとまって反基地闘争や成田空港二期工事阻止闘争・援農にでかけた。句会もおもしろかったなー。グループ内に俳句の名人(飄々亭)がいて、お寺や鞍馬山でハイキング途中で開いた句会で、気の利いたコメントをつけてくれた。
次は、定例デモ(13年間)、ヅカのワンパック配達助手、新潟の柏崎原発、もんじゅ公開ヒアリング阻止闘争、国分寺の自転車班(立川生協へ)、お世話になったチロリンさん、坂内さん、たくさんの仲間たちに感謝の表明です。詩人の島崎さんと30年ぶりに「ほんやら堂」(国分寺南口、中山ラビさんの店)であったぜ。

コンビブ集団は何をめざしたのか(「内面への亡命」(競争社会の裏側)に抗して、たまり場の復活、対抗文化の創出)、ヅカの分裂とワンパック野菜運動、フワットから立川生協へに入ります。
by issei_tachikawa | 2015-02-03 21:14 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)