浅沼稲次郎さんを追悼し俺達の未来を語る会余韻
2015年 10月 03日
誰だろーなー、やってくれたひとは。
ぼくがぬまさん好きだった理由は、たぶん、彼の政治主張よりも、彼の生き様だったようです。彼は大学は早稲田(入れなかったけれどあこがれていてぼくが好きだった大学です。)、学生運動で社会に目覚めて革命について生涯活動的でした。
だから好きだったということもあるのですが、むしろ彼の生活スタイルが庶民的だったからかナーと思います。長屋に住んでいた。夏の休みはゆかたでぶらぶら。いつも訪問者が絶えなかったと聞きます。
しかしぼくはどうだったかといえば、1968年3月にブントから脱落してから、1980年にクワンジュ蜂起に連帯する学生達の「金大中死刑執行阻止」の戦いに共鳴して再起するまでは、当時の彼女(いまのひとではありません・・笑い)と会話するだけで、全く孤立した人間関係でした。
あれから35年たって、あらためて浅沼さんの活動を見つめなおしながら、立憲・民主主義・平和のスタンスを問い直しながら、シールズなどの若き活動者に連帯し続けたいと思います。
これからイッセー通信36号(10月号)配布しにご近所(チャリで20分圏内)をまわり、午後がいよいよ土曜日夕食ボランテイアさんの説明会を、さんきゅうハウスでやります。15日年金支給日まであと12日、がんばろう!(日本ではない俺がですぞ)
◎因みに、浅沼稲次郎さんが、山口オトヤ少年(17歳)に日比谷公会堂で刺殺されたのは、1960年7月、日米安保条約が岸内閣により強行採決されたのはたしか6月15日(?)、当時彼は日本社会党の書記長でした。国会議席はいくつだったかなー?
イッセーは14才で、野球少年だったからあまり関心は持たなかったのではないかと思います。浅沼さんに思いをはせるようになったのは?「挫折」後、30代かなー、ようおぼえていません。