どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

カテゴリ:イッセー心理学、行動哲学、唯身論( 84 )

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目くそ鼻くそ、呉越同舟、同じ穴のムジナ、日本の政治社会文化状況考察にあたり改めて日本国憲法の存在意義と中身を問う。
ちゃんと読もうね。慌てることないからさ。ちゃんと勉強しながら語リア王。(面白いので未転換、あえて)
13条味わい深いね。すべて国民は個人として尊重される。日本会議案では個人が人間になっている。これはなかなかわかりづらいよ。騙される人が多いと思う。
この提案に反対するのはなかなか大変かと思う。おれは1968年3月に立ち返りながら、考える。当時のおれは、組織から抜けつつありながら、自分の正当性を胸張って説明できなかった。ヌケニン意識で何十年間も悩まされてきた。
でも今では自己対象化と社会の認識が進んで、次のように言い切れるようになってきた。
インデヴィジュアリズム、つまりイン・デバイド=これ以上は分割しえない存在のことを個人と呼び、その幸せ(実に主観的なのだ!)を基盤に国民生活の運営を考えるための憲法が日本国憲法だということ。
ところが日本会議に集まるインテリたちは、日常生活を個人単位だけで享受している日本人と在日が気に入らないらしい。
極論を突きつけるのだ。「攻められたときにどうすんのよ?」と。「まとまらないとやられちゃうよ。」という強迫もうまい。先日の北朝鮮ミサイルJアラート攻撃は、何から何への攻撃だったのか、冷静に分析評価してみると面白い。
一般論が出回る時代というのは、世の中が大きく変化していることの象徴だといわれる。中世から近世に至る、キリスト教世界の内ゲバとルネッサンス、1980年代の「生協論争」ほかにもたくさんある。
一般論で論議のテーマになることはとうに結果が出ていて、「ミネルバのフクロウ」の教訓を示しているだけなのに、評論家たちはあーでもないこーでもないと論争する。
今回の衆議員議員選挙の振り返りコメントがその一例である。
このかったるい一般論から脱出するには何が求められているのか。
真逆の「個別現実論」⇒「永遠の現場感覚から発信される」意見に従うのが良いであろう。いやー、18歳くらいから社会に係って今71歳だから、約50年も動き考えてきて、まだまだやなーとかんじる今日この頃であります。
ほんまの日本がわからない日本会議に、もう政治は任せられません。今回の選挙の大切な教訓であります。西郷南洲、大川同志、山本同志、小栗同志に魂で連帯いたしております。アメリカ軍の世界戦略防衛のために日本国の自衛隊を勝手に使うことなかれ!
右か左か、左翼か右翼か、保守か革新か、ではなくて、本当のナショナル、真実のリベラルがもとめられているような気がしています。今の安倍政権は自由民主の政権ではありません。運営主体は「日本会議」です。それに反対する野党の1つ、人気がたかまっているのが「立憲民主党」であるという事実に隠された真理に、みなさまの想像力・インテリジェンスが心ときめきますように。祈りながら

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by issei_tachikawa | 2017-10-25 14:56 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)

あえて沈黙を破ります

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トクサンと意見が一致していたなー、1つ思い出すことあり。「カテゴライズしていてはだめだよね。」ある時彼がこういいきった。ぼくもすぐさま、異口同音、アイシンクソーだった。
一般論の歴史を紐解けば、「ミネルバのフクロウが飛び立った」後で、一般論的な反省や攻撃(防御,応酬)があったように思える。
魔女狩り、宗教改革、資本主義批判と社会主義・共産主義の宣伝、ずーと飛ばして冷戦時代の終了(ベルリンの壁崩壊、ベトナム民族独立戦争勝利=アメリカ他のキリスト教十字軍敗北、天安門闘争)と新時代の到来(グローバリゼーション、世界先住民会議、非同盟中立路線の崩壊、アメリカ主導の大義も仁義も無い戦争の泥沼化)を振り返る。
今の文化現象だって、それらの世界史的「事実」とリンクしながら生成消滅を繰り返してゆく。生協は営利企業に対して「愛と協働」を推進することで、もう一つの地域を作りながら、政治権力に対しても対抗してきた。平和・民主主義・自然と環境・愛と協働、これらの理念は死んではいない。
しかし、今の社会現象の中で、どうしても腑に落ちないことがある。その1つが、「体罰」「指導死」「いじめ」をどう見たらよいのかという問題。相変わらず悩んでいる。もう何年になるか?
結論なんかでない。考え続けること。当事者に寄り添うこと。逃げないこと。俺しかいないと信じること、これがぼくのいまなのですが
日野テルマサさんの「暴力」について、批判が多い。マスコミは僕には今の関心事ではない。高橋亜美さんのコメントに感じることが多い。今の状況下ではどう考えても彼女の意見が正論かもしれないと思う。しかしだ
ぼくの小学校・中学校時代を振り返ってみるとどうしても語り伝え切れていない「事実」があったことを思い出す。
1つは、体罰を受けた人(ぼくもその一人)、髪の毛を頭の後ろからつかんで机に押し付けていたなー。おれは、小学校4年からぐれはじめて、中学校3年まで4人の担任のうち2人から「体罰された」平手打ちと竹のむちで。おれの頬に向かってくるKせんせーの右手のひらのぶあつかったこと、スローモーションでおぼえている。Nせんせー(野球部顧問)は、言うこと聞かないぼくの眉間にたけの鞭を十文字に食らわせてくれた。
今の社会現象との違いがある。おれはこのこと、おやには一切話さなかった。そして親も忙しくてというか、無関心というか、自分のことで精いっぱいだったのかもしれない。
そしてもうひとつ、やられたほうはやったせんせーと仲良くなった。今でも尊敬している。体罰しなかったセンセー(横溝正人)ともおれは亡くなるまでおつきあいしていただいた。玉大に行ったKは、ゼンキョートー運動に熱心だった。
もう一つ、いじめを受けていた友達、そーちゃん、たかはし、強くなったと思う。高橋君は、足が悪くて引きずるように歩く。授業中に彼のうしろから缶詰の魚をぶつけるけしからんやつがいたが、彼は負けなかった。1980年代の日比谷野音の集会で会ったら、なんと青ヘルだった!おれは嬉しかった。会いたいなー。
指導死についてはまだコメントできませんが、うちの次男や娘も高校ではとんでもない「指導」をうけていたと記憶していますが、彼らはその力を跳ね返して、今はたくましく生き抜いっている。一方で自殺に追い込まれる子どもがあとをたたない。無縁死(アパートでの孤独死や行倒れ)が年間3万人も出ている。いきなり解決策なんか思いつきませんが、考え続けていきます。
●画像は「さんきゅうハウス」の江川清さん。彼の話は、『のんびる』2016年11月号に載っています。「ホームレスやってよかった。やらなきゃわからなかったこと、体験して得た友達、気持ちの強さ、たくさんあるよ。」とつぶやきます。

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by issei_tachikawa | 2017-09-05 08:05 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)

庭掃除のアナーキズム

目の前のにいさんがとても変則的仕事らしくて、夕方車で出かけて明け方に帰ってきて昼間はねている。庭木や野草の手入れをする余裕すらないらしい。自治会総会にも出てきたことがない。
伸び放題の梅や雑木の葉が路上に落ちたままで「きたない」といわれる。俺はそう感じないのだが、とくに彼の家の左右がうるさい。ときどき面と向かってののしられている。
そこで考えた。俺の家の前を庭帚で掃くついでに彼の家の側(おれんちの反対側の路上)もはけばよいと。どこのとちがだれのものなのかなんてんのは、所詮、資本主義の勝手なナワバリ意識のなせる業なのだ。大地はパチャママのものです。
ボリビアではその考えのひとが大統領です。世界先住民会議も開かれています。先週北海道では、アイヌモシリのおまつりがあり、さんきゅうハウスからは、アパッチが参加しました。木曜日(24日)のお土産話がたのしみだにゃー。
庭というか路上の清掃しながら、ジョンレノンの「イマジン」を歌っていました。来週月曜日、駅前アクションでうたおうかなー。きょーしろーのカバーがまた良いんだよなー。
所有、天国地獄、宗教、国境、家族、財産、地位だの名誉だの、すべては資本主義がつくりだした幻想にすぎないんだぜ。

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by issei_tachikawa | 2017-08-19 21:06 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)

ほめると叱る

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最近は「叱ったり、しかれれたり」も体験しづらくなってきてるみたいですね。昔風の愛のムチ(鉄拳せーさい)なんてのも論外になっています。
俺らの小中センセーはよくなぐってたなー。おれも小学校4年から中学校3年まで、すべての担任からなぐられた。でもおれだけではない。そのキョーイクは日常だった。(昔が良いといってるのではありませんからね)
親にも言わなかったし、たぶん教育委員会(そんなんあったんかいな?)もうごいたことがないのでは。
おれはどんなときになぐられたのか?
1つ、授業を集団でさぼって、河原で野球をやっていた。昼頃戻ってきて、校庭まで給食持って来いと要求していた。クラスの男子の90%は参加していたとおもう。来なかった人の名前は今でも覚えている。(しつこ!)
2つ、同じく授業開始のベルを無視して「校舎に向けて」ソフトボールをやっていた。今考えてもむちゃくちゃや。殴られて当然の悪ガキだ。長野センセーは、教師になって初めての体験だったらしい。竹のムチで、おれのみけんを十文字になぐりつけた。
3つ、同じような状況下で、蒲池センセーから、平手打ちでなぐられた。3年の川崎育太センセーはサウスポーだったから左の平手打ちだった。
親も結構スパルタだった。祐司兄は、盆栽修行中に土間に正座させられたまま、おやじの仕事ぶりを始動されたという話を本人から聞いた。おやじは西勝造さんの弟子だったころは、兄姉を道場に連れていき、「6大法則」の実践を教育したらしい。兄姉の中で素直にいうことを継承している人はいないのではないかと思う。
こんな感じで昔の人は若者教育していたのですが、今は打たれ弱い人が増えている。困ったなー。俺にも解決策はだせないでいます。ただひとこと、「ほったらかしがベター」ということだけはいっておきたいです。生き抜く力は、とどのつまり、体内からこみ上げてくるものだと信じています。仲間がいてくれればうれしいですが、まったく一人で「遠藤へーぞー」(夜回り猫)やらなくてはならんこともあるしね。
◎写真のケーナですが、今は5代目のお世話になってます。ケーナを吹くんではない、ケーナが泣くんです。悲しみを乗り越えてみんな「リャキルナ」(悲しい人)やから。


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by issei_tachikawa | 2017-02-05 10:27 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)

ほめるとあまやかす

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似て非なるものなんですよ。といっても?の人、反論してくる人、世の中面白い。最初の質問ですが、アナタ褒められたこと、ほめたことってありますか?いつ、どこで、だれを、どのように、相手の反応はどうでしたか?
答えられない人が多いです。その理由を考えて、いまの答えですが
ほめられた体験がないのではないか?と思います。家庭、学校、職場、地域、の本全体が減点法社会なのではないかと思います。(昔、保坂くん=現世田谷区長がおなじようなことどっかで書いてたよな。)
学校の試験、100点満点、そこが目標、1つ間違えれば5点減るとか。パルシステムの職場でもむかしたくさんの苦情が出て、「ちゃんとやっててもまったく評価されてるのかどうかわからんのに、1つでも間違うと鬼の首取ったかのごとく叱られて・・」という係長が課長とバトルしていたことがありました。
そういうときどおする?
ほめられたことない、じっさいいまくさされているひとまえにして、そのひとをほめてもほとんど効果が期待できません。
そこで長期にわたる観察、寄り添い行動を続けます。持久戦だよ。終わりが見えない。でも必ず成果が見えてきます。
人間力ってやつは、いつもは眠ってるんだね。それが何かをきっかけにして力を発揮し始める。いまのミヤちゃんがそうだな、彼はのんだくれだった。彼と一緒に救急車なんか祈ったか?忘れるくらい乗った。で、死のがけっぷちまでいってえんまさまに言われた。「まだおまえがくるところではないよ。」って。三途の川は渡らずに済んで、今はカフェでシェフやってる。夢みたいだろ!1年前は、井の頭病院に監獄だったんだよ。
甘やかすってのは違うよ。今の母父みてると、両極端な気がします。子どもが泣くとおろおろして対応するばかり。その瞬間がチャンスなのに。転んだ子を抱き起してしまう。ちがうぜ!起き上がる力は、自分の体内に眠ってるんや。結局、現状打破のエネルギーは、それぞれの体内に眠っている原始のえねじーを信頼するのが一番なのかなーと思います。
「コブラのマーク」が聞こえてくるぜ。18日は、くんちゃんカフェのあと、KING-1ピースのライブです。申込はいっせーまで。
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by issei_tachikawa | 2017-02-04 21:47 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)

孤立と自立、個人と連帯


ハロウインの渋谷、だったよな?「ひとりぼっち」の若者が、群れを求めて集まり始めているというテレビ報道、2年目だという。
へそまがりのおれには、なんか違和感が生じる。
ひとりっきりになれない日本人、集団の中でしか自己確認できない人々、そこで商売するマスコミだから、当然受け狙いに走る。
ここ一番の日に一緒に祝うともだちがいないって、不幸なんですよと報じる。それをきくと自分はどうかなーと問いかけるやつが増える。いや、存在している。こういう風景、もう50年間以上見続けながら、ふだんはなにげなくみてみないふりしてくらしている。
でも、逆のうれしいニュースも聞く。
今日のカフェで、トシさんから聞いた話。38歳の時、サラリーマンやめて、世界88か国放浪の旅に出た。南米のアコンカグア(6000m以上)に一人でのぼった。
7号目あたりで吹雪の夜を過ごした。強烈なアンデスの突風、テントを両手で支えながら徹夜したという。死ぬかもという恐怖、もう一人の自分と対話するしかない世界。
それを乗り越えて快晴の翌朝、頂上にたったときの歓喜!太陽がありがたい。
おれも似たような体験がある。キョウジュンでぱくられ23日間の拘置所ぐらし、壁に貼ってある規則を暗記するくらいに読み漁る。ひとりっきりっていう貴重な体験。
あと、京都のアパートで、誰とも話せない生活数か月、狭い部屋の左右の壁が閉まってくるような錯覚、ラジカセのテープを録音にして自分の声を入れる。それを聞きながら自分の声と対話する。まさにひとりぼっちなのだ。
がしかし、ものがたりはここからなのです。こういう体験があるから、ひとりで他とまじわれなくなっている人の、心中を察することができやすいのかもしれない、とおもう。人が怖い、人の目がつらい、でもひとがこいしい、どうしたらええねん、この悩みに答えようとする毎日が過ぎていきます。今日もいろいろありましたが、生きていてよかったです。

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by issei_tachikawa | 2017-02-02 20:19 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(2)

信頼と信用

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前にも書きましたが、2つは似て非なるものだと思います。『信頼してるよ』という場合に、相手に担保や「文書」を要求するでしょうか?メイビー・ノー。
信頼は裏切られるかもしれない、裏切られてもかまへんかまへん、そのような了解がこちらがわ(信頼を寄せる側)にあるばあいに成り立つ間柄、それが信頼だと思います。相手がどう思っているかは二次的なことなのではないか。
極論:昔、連合会(首都圏コープ)職員で、面白い人がいた。「早稲田大学理工学部卒、コニカから移ってきた。学生時代にハンドボール全日本の監督としてモスクワ五輪に出た。娘が障碍者だが、家族でがんばっている。東大からもオファーがあって、講師をしている。」とのこと。
ぼくは彼を信頼していました。しかし、履歴のほとんどすべてが嘘であることがばれました。「娘の薬を入手するためにしばらくヨーロッパにいく。」と言って、休暇をとっていたところ、おかしいと感じた上司が早稲田、東大に電話して確認したら、彼の履歴のすべてが嘘だったことがあきらかになり、休暇申請の理由もうそだとわかり、解雇処分になった。
それから数か月して、高田馬場のホームで彼と出会った!驚いたことに、彼は、まったく悪びれていない。「これから・・・の研究所にいくんです。」と笑顔で語る。これには心底驚きました。「よしむらさーん、まったくひとがいいんだからー。」とからかわれたりもしましたが、ぼくは反省していません。
もうひとつ、最近のつきあいで、「大型トレーラーの会社を立ち上げた。」という人がいます。さんきゅうカフェのお客さんの一人ですが、先月末の寺子屋で、「1000円貸してくれませんか。」といわれたので、いつもの通り「ぼくは金銭の貸し借りはしないよ。水は高きより、金は多きより、流れ流れて回ってゆく。今はすこしあるんで、あげますよ。かえさんでもいい。」といって1000円上げました。
そしたらある人にきいたら、「あいつは会社なんかやってませんよ。みんな嘘で、たぶん・・・」という話でした。
以来彼の事が気になっていて、今日噴水公園で出会って手を振りながら、こう考えたのです。
「だまされてもいいが、だましてはあかん。」と。
ぼくの他者への信頼には限りがありません。べつに宗教的な意味ではなくて、信用の制度化を克服するためには、限りなく贈与、喜捨の仕組みを広げてつながりを密にしていくべきだと考えるからです。「あったかいお金」を回せる仕組みづくり、まいにちこつこつと積み重ねていきます。
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by issei_tachikawa | 2016-11-06 18:01 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)
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今朝ふとおもたのですが、目の前で誰か死んでいるのに、その人の体に鞭打つことは、まあ考えにくいなー、と。
で、最近シェアした癌とタタカッテいる女性のコメントをシェアしたことを思い出しながらこう考えました。
むしろ遺族の事かんがえるべきだっていうことではないか。それと「死者」の意味合いは、現状でやばい状態にある人のこともふくんでいるのではないかと。
そうかがえると、いままで、無神経な健康理論をストレートにふりかざしてきたのではないか、という不安が生じています。
いっせーの暴言で、傷ついたままのひとも多いかもしれない。本当に申し訳ない。赦して下さい。気づきを導いてくださった何かにありがとうです。

生と死、隣り合わせの日常、いついっても思い残すことがないように、他者の笑顔・万物命の循環・贈与し続けて喜んで捨て続けること、今日も楽しい一日にしていきます。

さんきゅうカフェ、きのうの「おすみさんの和定食」、力はいってたなー。でもなんか悪いなーという感じもしてます。無意識の競合誘い掛け、けっしてそんなきもちでブログやってたわけではないんですが、カフェのシェフさんは合計で6名もおねがいしてますから、各自の持ち味でやっていただければ十分ありがたいです。お客様にも伝わるはずです。「おまかせセットて何?」の意味が問われていますね。今日はきよし&だいすけカフェ、どんぶりもんで勝負らしい。食べに来てくださいね。
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by issei_tachikawa | 2016-09-30 09:59 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)

自立と一人前

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人は何をもって自立しているとみなされるのか?
1つは、こころのありかたかな。これってむずかしいな。外出、旅行、意思決定などでかならず他者の存在がほしいひと、依存的というのかなー?協働性についてはどうかなー。
2つ、経済は比較的わかりやすいかも。ビジネス世界で、補助金・寄付金・ボランテイに頼っているNPOなどは非自立とみなされやすい。個人の家計でも、おやのすねかじり続けている間は非自立に分類されるだろう。
3つ、政治ではどうか。7月に行われる参議院議員選挙、自立した選挙民は自分の判断で議員をえらぶ。非自立の人々は、マスコミにおどらされて、右往左往しがちである。安倍内閣の支持率なるものに日本の有権者の自立度が現れる。
比べて、一人前という尺度をあてがうと何が見えてくるか?
1つ、自立していても一人前ではない場合がある。たとえば経済、いちおう親から独立して働いているとする。でも預貯金はできない。足りなくなると親に頼んで借りたり、もらったりでは、一人前とはみなされないだろう。一人前になるって何なんだろー?
人はみな人の存在を前提にして生きている。いいかえれば1人ではいきていけないのが人の宿命、「人間とは社会的存在のアンサンブルである。」とマルクスはいっていた。
脳科学では「ニューロン」が発見されている。他方で、「共依存」なんてことばもある。アルコール依存症の友人にニコチン依存症の友達が寄り添う状態がそうだといわれることもある。
でも、人はあるいみ誰かに、何かに依存して生きているのではないかという気もする。
わからなくなってきた。一人前って何なんだろー。こどもらを一人前に育てるにあたって、大人の方も足元を見つめなおした方が良いと思う。
儒教道徳、侍精神、日本思想のなかに、なんらかのヒントはないのだろうか???
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by issei_tachikawa | 2016-04-14 22:52 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)
ぼくは「仕事の歌」を時々思い出して、歌いながらチャリをこいでいく。さんきゅうハウスで突然の告白というより過去をたんたんと語る人に会うとうれしくなる。その人に質問したわけでもない、頼んだわけでもない、自分で自分の家族関係、生い立ちを語り始める。「今までいいづらかったんだなー、そうだろーな思い出したくねーってことも多いからなー。」と思いながら、ようやく生まれてきた信頼関係を実感できてうれしくなる。小さなことの積み重ねだな。
あと、道でよく会う「元利用者」(今は年金生活者)から「こんどのもうぜ。」と誘われるのもうれしい。5月から6月15日まではたけのこ生活なので苦しいのですが、まあ何とかして3000円程度の金はつくれるだろう。OKした。「でーじょーぶだよ俺が出す。」といってくれるのはこれまたうれしいが、まさかねー。なんとかしよう。
そうだ、「仕事の歌」を仕事が無い人たちの前で歌うのはきついなー。やめとこうと今では思える。昔、鬼公園の夏祭りに「とろん」も来てくれた日、うかれて歌ってしまったが後で反省しました。後の祭りなんてしゃれんならねー。
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by issei_tachikawa | 2015-05-06 11:08 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)