どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

カテゴリ:自分史(1946-2066)( 52 )

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まちでよく声かけられます。「でてたねー。えらいなー。」とか言われると照れますね。「悪いことできないねー。」ともいわれます。
この記事書いてくださった市民レポーターの岩崎さんに、こころからありがとう。うまく言えませんが勘所に反応する感性、誠実にとらえて書いてくださっています。気持ちが通じてうれしいです。
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by issei_tachikawa | 2016-12-06 22:40 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
c0219972_2050104.jpg昼間は、緑町公園に60名以上が参加して、お雑煮会、カラオケ、ビンゴ、言いたい放題しゃべりまくり大会やりました。「長くしゃべってたのはおめーだろが。」の声あり(反省無し、自粛ムード、自主規制に抗い続けます。空気は読もうが読む舞が自由ですが、それを作り変える主体的な行動が必要ではないかなー)






c0219972_20534083.jpg遠くからも参加者が、なんとボスニアから。新宿ごはんプラスなんかにも参加されていると、「イッセーさん有名な人ですよ。」といわれました。すみません、三多摩いなかもんでして。連れ合いの女性が、「BAKA大」に興味ありとのこと。他にも、文塾様、柿木カンパニー様から「興味あり」の反応いただきましたので、2016年授業計画書を差し上げました。自分で言うのもなんですが、マジに面白くなって来てますし、これからもっと面白く安倍政権と対峙出来る地域のつきあい(地域縁、チイキカゾク、宇宙家族)を創っていきます。
事務局さん、たのむぜ!


c0219972_20591024.jpg初詣は、熊野神社で。大太鼓も叩きましたし、みやちゃんに「お守り」かったよ。多様な「依存症」と向き合うぼくら、アルコールやたばこだけではない、食べ物、セックス、相方(家族のだよ!)、パチンコ、競輪、競馬、競艇、そして仕事ですら依存していると早めの「ガン死」がまっている。健康診断も受け方、受ける心がまえいかんではある意味、近代医療と医者や薬への依存症といえなくもない。
依存症から解放されたいと必死に取り組む人に寄り添っていきていきます。大丈夫の心、何があっても順調精神で。



◎戦争法案反対署名、がんガン集めましょう!カフェの営業開始は、7日から、文塾も同じ日から、食堂・洗濯・入浴サービスは5日から、緊急フードバンクはいつでもやってます。どすこい!

☆若干心配だった、Aさんから連絡あり、「ネットカフェで寝てます。今仕事中(?)なのでお雑煮会はいけませんが、5日は大丈夫、みなさんにご心配かけてすみませんでした。」ということでした。ほっとひといきお正月。
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by issei_tachikawa | 2016-01-01 21:10 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)

2015年振り返りです

面白くってためにナル1年間でした。おもしろかったこと、やっぱトップは「さんきゅうハウス」の当事者(利用者)との付合いです。いままで認識できなかった「波及効果」(アウトカムってやつかな?)を活字にできました。でも、1つの成果をひょうげんしたとたんに、現実がどんどん変化していきますので、気は抜けません。終わりの始まり、始まりの終わり、般若神教もどきの世界です。これはおもろいで。みやちゃん、だいすけ、くまさん、えいさん、もろさん、かど虫、ねずこーやこばえくんからも学んでいきます。
つぎはなにかなー、FBだな。15億人、インターナショナルの付き合いが広がっていく。深まらないかもしれないが、でもそれがこのSNSの特徴なんだからいいんだと割り切って使っています。今現在FB友達346人、丁度30年前に「砂川八丁目生協」(立川生協のこと)に「再建屋」として係りはじめた頃の生協メンバー(組合員のこと)がコンくらいだったとおもう。30年よくぞ使いし足の裏かな。
3番目に印象深いのは、9.19だな。死んでも忘れない「強行採決」、自民党が自由と民主主義否定してどうなるんじゃろか?老婆心さえ感じてしまうよ。憎悪ではなくて哀れみ。でもおとしまえだけはつけなあかん。「安保」⇒「戦争」法案廃案要求2000万署名に向けて、ようやく動き始めました。「都民投票条例署名」活動の経験が生きてきます。ご近所をしらみつぶしに歩いて回る。裾野を広げる。反対意見に耳(心、魂)傾けることの大切さと面白さを学んでいきます。
4番目ですが、ためになったといえば、BAKA大授業と「さんきゅうカフェ」での付合いでしたね。くまさんの講義からは、「精神病は病気ではない、精神病院は何か別の場に変えるべき」という確信が生まれました。大輔せんせーの話からは、ヤクザのかっこよさを学びました。(暴力団とはちゃうで、沖縄知事選で最後の応援演説した文太さんや)アパッチからは、「コタンのいきかた」を教わっていますし、ヒデサンの「日本国憲法」成立の舞台裏に、終わりなき明治維新を感じています。
最後は、毎年のありがとうです。家族に、仲間(NPO、CB、せーきょー、バンド、親戚、アバン、グリーンズJAPANなど)に、生産者やメーカー・流通業者のみなさんに、バイトのY同士に、そして長岡式酵素玄米のセンセー、天から導いてくださる父・母・兄姉・万物に宿る神様に、心の温底から御礼申し上げます。
プラスワン、今年もワイナマユとロスサバドスを楽しめました。メンバーのみんなに感謝感謝です。さらにジェンベ教室のセンセー、あっちゃん、KINGの皆さんも良いお年を。音楽は世界だね。あらゆる障壁を溶かして、人と人をつなげていく。真の平和を獲得するためなら、武器は要らない。
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by issei_tachikawa | 2015-12-19 03:31 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)

なぜ生きるのだろうか?

「あるーあさーめざーめてーさらばさらばこいびとよ、めざめてわれはみぬー、せめいるてきをー」(イタリア・反ムッソリーニ反ナチ・パルチザン兵士の歌」
昨晩「安保法案賛成」の動画を見たのだが、なんともいいようのない同情と軽蔑と懐疑の気分が消えない。あの論客、三島由紀夫さんのように「さんきゅうハウス」にきてくださるだろうか?むしろそのほうがお互いに国民の幸せに寄与できると思う。今のままでは、うそつき政権を支えて心中する運命しかないから。
三島由紀夫さんは、楯の会のメンバーと自衛隊市谷駐屯地に突入し、「幻視の天皇陛下(現実の生身の天皇ではない)」を頂とするクーデターを呼びかけたが、その場で決起する兵隊はでるよしもなく、森(じゃなかったか?)と2人は切腹した。丁度イッセーは学生運動・ブントの革命からショウカンシテ人生の目的を見失っていたころ、1970年の出来事だったと思う。
そのころぼくは太宰治は名のある作品はほとんど読んでいて、小ブル(なつかしいことば)的自分史と太宰の自虐的な主人公や太宰自身と自分を二重写しにしていて、三島のたくましさがいやらしく感じて、なじめなかったのだが、今では2人とも面白いと感じて、未だに時々読んでいます。
三島が東大のバリケードのなかで、全共闘と議論(消耗なイデオロギー闘争を超える志向をもっていた)した記録は、『美と共同体と東大闘争』として出版され、you tubeでもみれますが、三島のような右翼って今いないような気がします。だよね?いたらあいたいもんです。時空間超えて論議しましょう。
右だ左だゆうても、所詮人間世界のごく一部、コップの中の嵐的な対立にすぎません。なんのことはない、フランス革命時に議会の左側に革命派が座っていて、右側に王政擁護派が陣取って、やいのやいの言っていた事実に起因する、レッテル張りに過ぎないのではないかと思います。宗教、政党の違いを超えて、「ほんとうに国民とアジアの平和安定に寄与する法案は何なの」を論議しましょう。法案論議は、その人の生き方、地域べーすの国つくりのあり方の話なのです。
太宰も三島も、めざす山の頂上に見る希望の星はおなじですから。太宰の『畜犬談』、『貧者の意地』おもろいよ。三島のでは『剣』(遺稿)がおもろい。
人生の目的は、じゃくちょう・晴美さんがおっしゃるようなことだなー、革命と愛(恋愛だけでないよ、慈愛も、同士愛も、栄子さんのこと思い出すなー)
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by issei_tachikawa | 2015-09-23 10:50 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
1965年、小田実さんがブラックパンサーのリーダー連れて日本全国ベトナム反戦講演ツアーした。当時の僕は法政大学経営学部1年、話の中身はほとんど覚えていませんが、小田実さんの眼光の鋭さは今でも目に浮かびます。
ブラックパンサーのリーダーは、ストークリー・カーマイケル、ボビイ・シール、マイケル・バラット・ブラウンだったよな。活動拠点はたしか自動車産業の町、デトロイト。銃撃戦やってたよなー。ウーンデットニーでの先住民の闘いとも連帯していた。
ぼくはさまざまの偶然が重なって、べ平連にはいかずに、赤ヘルでベトナム反戦闘争をやったのですが、その運動のドコに問題があったのか最近になって気づき始めています。
まだうまく活字にできないのですが、ヒントは今の国会でのシールズ的な活動に、そして昨日のマイニチ新聞夕刊での「小田実とべ平連」(吉岡忍)のコメントにあるような気がしています。
学生運動での多様性、複数主義って何なのか?って話ですね。
(べ平連とシールズの共通項を考える、メモ)
共通項について、今思いつくこと3つ
1つ、何をめざしているのか、各人各様です。
新左翼党派的な、戦略はいまのところは持っていないようです。(そのほうが良い)
2つ、やりかたがソフトです。おまわりさんとも気楽に会話できる。
敵を倒して新しい社会をという思い上がりがあまりな感じられない。だから
医療班とかを用意もできるし、なんとマイクのボリュームにまで気使っている。
3つ、「これ終わったらどうしますか?」聞かれて、あるリーダーが「やめます。就職するし」
といっていた。これで良い。学生の運動なのだから、それぞれが多様性を認め合って
党派に入りたい人は入るのも自由だし、国会行動終了したらあっさりやめるのも自由です。
おれにはいえなかったことですよ。
おれは40歳まで・・・・でしたからね。やばいやばい。それで得たことも多いけどね。
「民主主義ってなんだ?」⇒「これだ!」
日本における政治的文化の成熟について、もっともっと主体性(加害者意識・的行動と被害者意識・としての事実)を掘り下げて考えるつもりです。考察する基盤は、細胞レベルから国家レベルまで総合していくこと、個別性と全体性
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by issei_tachikawa | 2015-08-20 20:11 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
京都大学には4つの学生寮(熊野、吉田、女性、院生用の)があったが、Mさんの反対を押し切って最も学生運動が活発だった熊野寮に入った。門の付近に立ち並ぶたて看板に郷愁をかんじつつも「研究が第1なのでヘタに運動にかかわるのは厳禁」と自分にブレーキをかける日々だった。
これはとても辛いことだ。理論は実践とのつながりにおいてのみ追求する価値があるといいう価値観は変らなかったので、研究だけに専念できない。これを弱さというか、血が騒いだというか、でもあほな自分がぼくは好きである。社会で現実に生起する問題の中に資本主義に内在する根本的な矛盾(使用価値と価値、物象化、労働力の商品化、市場競争が富の格差・偏在を拡大していく、不均等発展と一方における過剰生産と多数の貧困など)を解決する切っ掛けをさがすという手法は変えようが無かった。でも修士論文だけはなんとか書き上げたいという欲望と光州蜂起・三里ヅカや港合同労組などの自主生産運動に連帯して戦いたいという願いが毎日のように自分を葛藤の渦に巻き込んだ。
そんななかで前川先生には大変お世話になり、なんとか「モンドラゴン協同組合における生産組合の存立要件に関する考察」で修士は卒業。
自分よりひとまわり若き活動家に誘われて、四条河原町の「マラソン演説会」でマイクにぎったらもう自分はとまらなくなった。熊野寮でコンビブ集団をつくった。A棟の4回にすむ学生中心に最初は遊び半分でつながり、次第にまとまって反基地闘争や成田空港二期工事阻止闘争・援農にでかけた。句会もおもしろかったなー。グループ内に俳句の名人(飄々亭)がいて、お寺や鞍馬山でハイキング途中で開いた句会で、気の利いたコメントをつけてくれた。
次は、定例デモ(13年間)、ヅカのワンパック配達助手、新潟の柏崎原発、もんじゅ公開ヒアリング阻止闘争、国分寺の自転車班(立川生協へ)、お世話になったチロリンさん、坂内さん、たくさんの仲間たちに感謝の表明です。詩人の島崎さんと30年ぶりに「ほんやら堂」(国分寺南口、中山ラビさんの店)であったぜ。

コンビブ集団は何をめざしたのか(「内面への亡命」(競争社会の裏側)に抗して、たまり場の復活、対抗文化の創出)、ヅカの分裂とワンパック野菜運動、フワットから立川生協へに入ります。
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by issei_tachikawa | 2015-02-03 21:14 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
c0219972_16401454.jpg修士課程では「スペイン・モンドラゴン協同組合連合体の歴史」を振り返りながら、生産組合(自主管理)の存立要件を考察した。指導していただいたのは菊地光造さん。おせわになり、翻訳論文に近いレベルでしたが、何とか合格しました。
1970年代は、イギリス、フランス、北米、日本などの「倒産⇒自主管理」運動が注目されていました。パルシステムと付き合いのある「パラマウント製靴」さんなどもその運動の1つでした。
企業が倒産すると、先に逃げてしまうのが資本家、技術者、営業マン、逆にその道何十年の高齢現場労働者は転職したくても行き場が無い。
だから倒産企業で自主生産・自主管理が始まる。ぼくは大阪の弁天町、全国金属加盟の田中機械、大阪亜鉛、細川鉄鋼の労働者に地域丸抱えの革命拠点形成を期待しました。
1978年に始まった田中機械の争議は、地元暴力団の介入もはねのけて、ついに企業再建を達成するまでいきました。その過程で、ぼくは「生産組合」化の夢を抱いて、モンドラゴンの研究を続けたのです。
ウオークショット、T.グリーンウッドなどの西欧自主管理運動の情報を英文で読み、ついに『モンドラゴンの経済』を入手しました。スペイン語の文献も手に入れましたが、残念ながら役立たず。ホセ・マリア・アリスメンディ・アリエータに賀川豊彦を重ね合わせて読み込みました。
社会党の理論政策委員会で出していた『理論政策』にも1つモンドラゴン研究論文を載せました。港合同労組の学習会でも、簡単な問題提起をさせていただいたことがあります。生産組合が協同組合グループの主軸にあり、銀行(労働人民銀行)・学校・消費生協・農協・たまり場まで経営している協同組合連合体は、60年代の実力闘争(革命的敗北主義)が果たせなかった建設的な世直しプランになるのではないかとさえ期待しました。
そのままなにごともなければ、今頃はどこぞの大学の研究室に名をのこしていたのかもしれませんが、1983年の三里塚(成田空港)反対同盟が二期工事予定地内の1坪共有地運動をめぐって意見分裂し、支援していた党派の分裂が各地域にもろに影響してきたのです。熊野寮でも横堀と第1公園で真っ向から意見がぶつかりました。
ただし、今でも僕はただしかったと思っていますが、寮内で公開の討論会を開いたのです。「話せばわかるやろ。空港反対の目的は同じなんやから」ということ。宇沢弘文さんは円卓会議の座長まで引き受けてくださいましたが、このときの意見の違いについては未だにわけがわからない部分をひきずっています。(次は時代に翻弄されたコンビブ集団と面白フワットについて書きます)
熊野のコンビブ&フワット活動、定例デモ(13年間)、ヅカのワンパック配達助手、新潟の柏崎原発、もんじゅ阻止闘争、国分寺の自転車班(立川生協へ)、お世話になったチロリンさん、坂内さん、たくさんの仲間たちに感謝、
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by issei_tachikawa | 2015-02-01 16:44 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
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京都大学経済学部大学院修士課程の試験は、なんと1次試験=学科(ペーパーテスト、経済学原理・日本経済史、経済政策論、英語、フランス語=選択)のみ。つまり東大のような論文書かせて5人の教官が面談し決める口述試験がない。この意味では東大も京大も問題のレベルは大差ない、どっちに入れるか、どちらもダメかは運も左右する。
何しろ3年も受験してきたのだから、マルクス経済学選択なので資本論は暗記するほど読んだし、他の科目の問題も300以上自分でつくって答えを時間内に記述するトレーニングもした。過去問は当然入手できる年代のはすべてクリア。これでだめやったらよっぽど運が悪いか、あほなのか、向いてないのかだからやめとこ思っていた。要するに究極の居直り状態。でも、小4からぐれはじめて、6年次は5段階評価の3以下ばかりだったのに、3年では学年総代、6年間学級委員をやらされた(望んだわけではありません、神に誓います、笑い)ぼくには、自分でも認識と制御しづらい人格が形成されていたのだと思う。
それにしてもしけんというものは、しかるべき準備をすれば、たいていは合格するものなのかも。CFPや社会保険労務士程度しかいえませんが。弁護士や医者クラスは若いうちに挑戦するほうがよいね。
幸にも合格した(と直感した)夜のホテルで、サッポロ黒生で1人乾杯、ダンヒル赤をすった。3ヶ月間の禁酒禁煙、Mさん特製の「ヨーグルト」飲んで切り抜けてきたので、おいしさと開放感はひとしおでした。3ヶ月ぶりでスイッチ入れたテレビ、芸術祭入賞ドラマ「坂部ぎんの青春」(笠智大衆、藤田弓子、梅宮辰夫)に感動したりも。
しかし合格したものの指導教官が決まらない。目当ての平田清明氏には拒絶され、困っていた時に今東くん(大阪外語から東大の院に入った)の友人服部さんの紹介で、前川嘉一先生を紹介された。
もう他界されたト聞くがどれだけ心配かけたことか、機会をつくってお墓参りセナ阿寒と思う。娘さんは今でも世界の山山を歩いていらっしゃるだろうか?
前川さん、北小路さん、滝田修こと竹本信弘さんのことはあとで書きます。以下、書く予定項目のみ。
熊野のコンビブ&フワット活動、定例デモ(13年間)、ヅカのワンパック配達助手、新潟の柏崎原発、もんじゅ阻止闘争、国分寺の自転車班(立川生協へ)、お世話になったチロリンさん、坂内さん、たくさんの仲間たちに感謝、そろそろ通信配布にご近所をまわります。1日仕事
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by issei_tachikawa | 2015-02-01 10:07 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
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安保闘争は敗北としか言いようが無かった。(1970年6月自動延長)周りは就職していくがおれは自宅待機していると、ダイアモンド社に入社していた大学の先輩から「少しうちにわらじを脱がないか?」と誘われた。この人、元は法政大学応援団長、彼のアニキは長野県の部落解放同盟幹部だった。
その気になって入ってみたが半年しか続かなかった。仕事は「就職ガイドブック」(2000社から求人広告とって1社100万円、売上20億円)の営業、ホンダ、日本航空、銀行などの人事部長相手にえらそうなこといっていたような記憶がある。まさに無知なるがゆえの強気というか、人手がちょー不足だったので、こちらに有利だったのだろう。
おれの頭はつんつるてん、クロにシルバーのストライプシャツを着て営業していた。よくまー仕事取れたものだと今になって思う。
幡ヶ谷二の二の二のアパートに住んだのと、Mさんとのおつきあいが始まったのはほぼ同時だったと思う。彼女はある女子大の全共闘クロマクといわれていて、なかなかの策士であった。「ジュッパチの羽田闘争をテレビで見て感動し、おやじの金庫から200万いただいて東京に出てきた。」というから、ドラマの女優みたいな人だ。
10人位の仲間がよくアパートに来て全共闘のポスト大学版を演じていた。ある大手電気会社に組織的に入り込んだり、神田駅前でカンパ活動したり、その金を私物化した男子学生の大学まで取り戻しにいったら、返り討ちにあったり、危ないドラマもあった。
ぼくはといえば、先の見えない毎日が続き、ダイアモンド社の「つぶれ左翼吹き溜まり的な雰囲気」に耐えかねて半年で退職し、何回も引越しと転職を繰り返した。20代から40歳で立川生協再建の手伝いを頼まれるまで30ほどの職業を体験した。
鷺宮のアパートで同棲していたころは、学生運動の継続エネルギーにも終わりが見え始め、仲間も減り、僕は世田谷の実家の仕事(なんと盆栽業)手伝いを始めた。
NHK英会話をみているときにMさんが聞いた。「大学院に入る気はないの?」と。あまりにも突然の質問に驚き「え!でもどこの?」と聞き返したら、なんと「トーダイしかないでしょ。」と断言する。何を考えていたんでしょうか?それは彼女に聞いてみるしかないのですが、彼女の語気から「ドラゴン桜」になってほしいという思いを感じ取りました。最初は無理だろとおもっていたのですが、いつのまにか「やってみておれがくずでないこといを確かめよう」と思うようになったのです。映画ロッキー「アイム ノット アバム」
1年目学科試験発表の日、掲示板に自分の受験番号見つけた歓喜の瞬間、そのあとの苦労が半端なかったのでもう忘れましたが、論文審査にまでいきました。でも二次試験で失敗、2年目も学科は通りましたが、二次試験(論文と5者面談)「1点差」(当時面談者の1人だったK教授から聞きました。)でだめ。3年目は、京都大学と東京大学両方受けましたら、京都で合格したので、東大は止めました。これが人生の分岐点でした。「敗北した理論を見直して再構築する」という大義名分は捨てませんでしたが、東大に入っていたら学生運動アゲインはなかったでしょうね。東大に熊野寮みたいな面白い場所は無いからね。京都にしてよかたなー。今になってしみじみとそう思えるようになりました。次は「世間的にはすかっだった1980年代、でもオレにはありがとうの時代」についてです。光州(カンジュ)民衆の闘いがぼくの闘争本能を呼び覚ましてくれました。前川ゼミ、熊野のコンビブ&フワット活動、定例デモ(13年間)、ヅカのワンパック配達助手、新潟の柏崎原発、もんじゅ阻止闘争、国分寺の自転車班(立川生協へ)、お世話になったチロリンさん、坂内さん、たくさんの仲間たちに感謝などなど。●写真は、1/31八王子「生活舎」新年会で挨拶されている養豚生産者と後継者の津田さん、なんと35歳!これからが楽しみやね。
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by issei_tachikawa | 2015-01-31 22:45 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
c0219972_21591491.jpg1968年1月のエンプラ佐世保寄港、どうしようか迷っていた。党派に属していてもなかなか腰が上がらない時だってある。正月の朝、カラダに鉛が入ってるようなけだるさ、左下の奥歯根が化膿し痛むので、飯田橋の飯島歯科でソウハ手術、やるきを取り戻して新橋で戦った。
現地では放水浴びてもひるまずに前進する学生の献身的なたたかいがタクシー運転手や右翼青年の共感さえも生み出し、『朝日ジャーナル』がマスコミでは初めて学生と青年労働者のベトナム反戦闘争に好意的な記事を載せた。(確か当時の編集長は、筑紫哲也さん)
3月には王子米軍野戦病院開設阻止闘争を戦った。生まれて初めてのデモ隊総指揮、大隈講堂から出た部隊は、王子駅で集会後、何回か橋で機動隊と衝突し、病院突入を図った。公務執行妨害で逮捕され23日間の拘留、3度目の「くさいめし」。今だから言うが、実は計画的な逮捕劇だった。毎日のようなデモ生活で疲れたので少し休もうかとたくらんだのだ。
逮捕されることを見越して警官の後ろから右肩めがけて角材を。杉だから弱い、直ぐに折れる。比べて相手の警防は多分樫なので固い。なぐりかかった直後、うしろから2人に攻撃されて3人に両手両足持たれて装甲車に引きずり込まれた。途中でペンキ缶に引っかかって上半身まっきいろ。
23日間完全黙秘だったので誰ともコミニケーションしないでいたら、活字に飢えまくり、留置場の壁に貼ってある規則を暗記してしまうほど何回も読んだ。
出所してきたらなんとブント7回大会は終っていて、マルクス主義戦線の仲間は2日目欠席で除名されたという。なんということだ、ぼくには適切な対応ができないくらい、ショックだった。
法政大学経営学部の自治会執行部を握っていたので、5つのセクトから誘いが来る。プロ軍の太田竜、戦旗の荒、中大の中井(独立系?)、早稲田の松井くんらのL協、岩田弘さんからも「秘密党」で誘われた。ほんの僅かの期間松井くんらと学習会したが、結局ぼくは孤独の一人旅を選んだ。新左翼組織に幻滅しきったはずだった。「負けた理論を問い直し、もういちど革命の物質的・精神的な条件について解明しなくては、立ち上がれない。」と考えた。「個人の解放が組織よりも大切なのではないか」とも考えた。だから「抜け忍意識」にさいなまれながら命はつながっていたが、あのまま突っ込んでいたらどうなっていたか、なんともいいようがない。うちゲバやゲリラ闘争の総括もまだまだこれからである。さんきゅうハウスやパルシステムをやりながら、悔しい青春を振り返りつつ、うちゲバを超える道を模索しています。
その年、10.21新宿の群集反乱は見事でした。フツーのおじさんがダンプカーに乗って機動隊の阻止線に突入していく。地下通路ではいつまで続くのか反戦フォーク集会、岡林信康や長谷川なんとかさんが英雄みたいだったんだろうな。
僕はしだいに文化的なものに惹かれて生きます。山下洋輔トリオとの出会い、唐十郎・リレイセン・四谷シモン・麻呂赤児・大久保鷹らの状況劇場、健さん・藤純子のやくざ映画、ガロのつげ義春、とくにJ.コルトレーン・O.コールマンなどのニュージャズに革命の可能性を感じてテナーサックスの「修行」を始めました。
「キューバ革命はパチャンガのリズムから生まれた。」(平岡正明)を思い浮かべながら。昼は土方、夜はキャバレーバンド、やがては大学院に入りなおすための受験センソーがはじまります。
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by issei_tachikawa | 2015-01-30 22:00 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)