どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

カテゴリ:尊敬する日本人(そんにち)シリーズ( 22 )

追悼:むのたけじさん

c0219972_8492267.jpgむのさんは、新聞記者として侵略戦争に加担した人間としての罪意識と戦い、肯定的取材した反省から、故郷の秋田県で週刊新聞「たいまつ」を発刊しながら反戦を訴え続けました。
21日午前0時20分、老衰のため、さいたま市内の自宅でなくなったことを今知って、急ぎブログ掲載しています。葬儀・告別式の日取りは未定。後日しのぶ会の開催を検討しているそうです。
 東京外語大卒、太平洋戦争中に朝日新聞記者として海外特派員を務めましたが、敗戦と同時に退社。1948年、秋田県横手市で「たいまつ」を創刊し、反戦・平和や農村・農業、教育問題などで評論活動を続けていました。
 彼について知ったのはごく最近、『のんびり』という雑誌の対談でした。「(藤本)今の時代だからこそまだ、そういう(ニューヨークタイムズや『たいまつ』を指している・・・挿入者はイッセー)地域の新聞やメディアが果たせることがあるんじゃないかと。(むの)前略・・地域の新聞ヤメデイアでは、読者側が同時に発行者にもなれるの。読者と発行者の共同作業が大切なの。大新聞社が、新聞売って儲けるでしょ。これでは仲間じゃないもの。だもんだから、軍部が恐れるような力を生めなかったの。この格好のままじゃダメ。ところが地域新聞は、それにこだわらないもんね。なんでもやりたいように試してみる。」
 ちょうど昨日、メダカヤ(イッセーと3人ためどしの、林夫妻がやっている隣町の環境市民グループ)林君ちで、「むのさんっていい顔してるよね。101歳だって。すごいね、おれらもあんなふうにとしとれたらいいね。」って話していたのです。それから、体調不良でお休み中の神馬君ちに、『のんびり』を届けて、むのさんのインタビュー記事だけコピーして、自宅のPCルームの壁に張ったのが昨日だったのです!なんという偶然の一致。虫の知らせ?かもね。
 反戦魂貫いた新藤兼人監督、小金井で九条壊すな署名を1人で90万(?)筆も集めて86歳で亡くなった男性、タタカイ現場のリアルを撮り続け・報道し続けた福嶋菊次郎さん、などなど日本には心底尊敬できる先輩がおる。
 イッセーの通信、たいしたもんではありませんが、月1回ペースで41号になりました。目高や通信は1000号(!)に近づいています。3人で「生前葬」(75×3=225歳)やるつもりです。
◎台風9号接近ですが、さんきゅうカフェは営業します。「ザ・タイフーン・ウオント・ストップミー」(雨にも負けずのアーサー・ビナードさん訳)ただし、危ないので旗や看板、スロープは台風去るまで出しません。けど営業してるからね。
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by issei_tachikawa | 2016-08-23 20:08 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_8492267.jpgむのさんは、新聞記者として侵略戦争に加担した人間としての罪意識と戦い、肯定的取材した反省から、故郷の秋田県で週刊新聞「たいまつ」を発刊しながら反戦を訴え続けました。
21日午前0時20分、老衰のため、さいたま市内の自宅でなくなったことを今知って、急ぎブログ掲載しています。葬儀・告別式の日取りは未定。後日しのぶ会の開催を検討しているそうです。
 東京外語大卒、太平洋戦争中に朝日新聞記者として海外特派員を務めましたが、敗戦と同時に退社。1948年、秋田県横手市で「たいまつ」を創刊し、反戦・平和や農村・農業、教育問題などで評論活動を続けていました。
 彼について知ったのはごく最近、『のんびり』という雑誌の対談でした。「(藤本)今の時代だからこそまだ、そういう(ニューヨークタイムズや『たいまつ』を指している・・・挿入者はイッセー)地域の新聞やメディアが果たせることがあるんじゃないかと。(むの)前略・・地域の新聞ヤメデイアでは、読者側が同時に発行者にもなれるの。読者と発行者の共同作業が大切なの。大新聞社が、新聞売って儲けるでしょ。これでは仲間じゃないもの。だもんだから、軍部が恐れるような力を生めなかったの。この格好のままじゃダメ。ところが地域新聞は、それにこだわらないもんね。なんでもやりたいように試してみる。」
 ちょうど昨日、メダカヤ(イッセーと3人ためどしの、林夫妻がやっている隣町の環境市民グループ)林君ちで、「むのさんっていい顔してるよね。101歳だって。すごいね、おれらもあんなふうにとしとれたらいいね。」って話していたのです。それから、体調不良でお休み中の神馬君ちに、『のんびり』を届けて、むのさんのインタビュー記事だけコピーして、自宅のPCルームの壁に張ったのが昨日だったのです!なんという偶然の一致。虫の知らせ?かもね。
 反戦魂貫いた新藤兼人監督、小金井で九条壊すな署名を1人で90万(?)筆も集めて86歳で亡くなった男性、タタカイ現場のリアルを撮り続け・報道し続けた福嶋菊次郎さん、などなど日本には心底尊敬できる先輩がおる。
 イッセーの通信、たいしたもんではありませんが、月1回ペースで41号になりました。目高や通信は1000号(!)に近づいています。3人で「生前葬」(75×3=225歳)やるつもりです。
◎台風9号接近ですが、さんきゅうカフェは営業します。「ザ・タイフーン・ウオント・ストップミー」(雨にも負けずのアーサー・ビナードさん訳)ただし、危ないので旗や看板、スロープは台風去るまで出しません。けど営業してるからね。
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by issei_tachikawa | 2016-08-22 08:36 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_15492812.jpg90歳越えても記憶鮮明で「第二次世界大戦」、光機関の戦いを語り続けました。ビデオにも収録されています。
彼の話で印象深いことを3つ紹介します。
1つめは、敗北した軍隊のくずれかた。
2つめは、インド独立と光機関の係り。
3つめは、弟への思いです。
1つめ、彼は、インパール作戦で最後まで生き残った上等兵(?)でした。敗戦が決定的になるとトップから崩れていったそうです。「部隊長が飛行機で逃げる、役員クラスは自動車で、部課長クラスは自転車で、自分は最後まで陣地に残り、証拠隠滅してから闇に逃れました。」といっていた、彼は、インパール作戦で最後まで生き残った上等兵(?)でした。「戦闘での死者よりも、餓死やマラリヤ、破傷風なんかでやられた方が多かった。」といってました。
「二度と戦争はしてはいけない。」ともおっしゃっていました。
「鉄砲撃ったのは1回だけ、それも牛殺して食べようとしたが、弾がそれて叶わなかった。」とか。
亡くなる前に「アメリカの缶詰がほしい。マルショーで売っているから買ってきてくれ。」とおっしゃっていて、周りは困ったらしい。飢えた時にそれで生き延びた体験(思い出)かな。
彼は連絡があるまで現地で潜伏していろという軍の命令通り数年間帰国しなかったので、死亡者とされていて、帰ってきた時、家族がどんだけ驚いたか。
2つめ、大川塾生は、光機関という秘密組織で、今のイラン(昔のペルシャ)からベトナムまで派遣されていたという。
「大川周明センセーは難しいことは指示されなかった。『現地の人に日本人をわかってもらえ。友達をつくれ。』が主な指示だったとか。
関東軍の暴発がなければ、歴史はかわっていたのかもしれないという気もあったのではないかとおもいますが、今の僕には2.26含めて皇道派の戦いを評価できるデータが不足しています。
戦争の一般論では説明しきれない、軍内部の意見対立と行動の相違の評価は今後に回しますが、(明治維新とはなんだったのか?に通じる問題意識です)インドのチャンドラボースと光機関は手を取り合ってイギリス軍とたたかい、独立を勝ち取ったというのは「事実」でありましょう。
1950年代、ネール首相から哲郎さんに『感謝状』が届いています。
1975年4月30日、「サイゴン陥落」の日、光機関の生存者が元の本部場所に集まり、涙ながらに万歳三唱した気持ちは、信じたいものです。あの戦争は、マクナマラも自己批判したように「民族独立戦争」だったのでしょう。廃盤になった「共産主義からの防衛」というLPを後生大事に持ち続けるイデオローグがまだいるという事実にも不気味さを感じますね。
むしろ、大切なことは「日米地域協定」見直し、不平等条約改定、沖縄に民主主義を(普天間基地の辺野古移転取りやめ、高江のヘリパッド工事中止)アメリカからの「独立」ではないか。
3つめは、芳郎さん(弟)の葬儀でのかれのメッセージです。うまく伝えられませんが、出征直前「にんちゃん!」って叫んだのだそうです。兄弟感覚がわからないイッセーにはそのメッセージをいつまでも記憶していることが、とてもうらやましく感じました。
「相送当門有済竹 為君葉葉起清風」(あいおくりてもんにあたれば きみのためようよう(?)清風を起こす)送天謝意 合掌
西東京市のお寺でお通夜、告別式でしたが、「個人の意思でご香典等はご遠慮させていただきます。」とのこと、かたじけない。
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by issei_tachikawa | 2016-08-06 15:51 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_22242550.jpg逆から話そう。伝わらない話し方。くどい、ながい、何が言いたいのか焦点がぼけている、声が拡散してでかい(しまりのない声)、理屈っぽい、たいそうな話し方、洋行自慢型、今や世界の情勢は型などなど。

これらに比べると、小中学校で教わった先生方は熱血漢が多かったのか、おれがワルすぎたのか?聞いてみたいところですが、とりあえず今日は自己分析です。

小学校4年~中学校3年まで、全ての担任に殴られた。原因についての詳細は省略しますが、非は自分の言動にあり。それと野球部の顧問にも、枯れた竹の鞭のようなもので顔面をめがけてやられそうになったが、これは避けられた、というよりさすがに当てるつもりはなかったのだろうとは思うが。

いずれにしても、かけられた言葉は覚えていないが、彼らが身体をはって何かを伝えようとしていたことはくっきりと体が覚えている。親に垂れ込むことはなかった。教育委員会もノータッチだった。もちろん職員会議で問題になることだってなかったのだと思う。先生になぐられて自殺する子もいなかったと思う。

3人からの心に染み入る話(林竹二さん、奥崎謙三さん、渡辺正さん=仮名)
林さん(故人)は、60年代末宮城教育大学学長だったが、全共闘に連帯して職を辞されてから、小学校・夜間中学高校、朝鮮高校などを巡回授業していた。なんとテーマは「ソクラテス哲学の現代的な意義」、子供に伝わるはずが無いというのは、大人の認識不足で、子ども達が先生の話に食い入るような目が印象的でした。

この授業体験を大学祭で聞いた。講演に集中していて先生が「あっ時間がありませんね。」とおっしゃってご自分の時計に目をやった瞬間ぼくも実時間を意識したのですが、何と3時間たっていたのです。「教えることは学ぶこと」、「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」これが話のエキスでした。

奥崎さんは、皇居パチンコ玉闘争の主でしたが、神戸大学正門前で、自動車のパーツ販売をしていました。店の前には、安保粉砕・天皇制打倒、ベトナム戦争阻止と書かれたたて看板がたっていました。これで商売になったのだから時代ですねー。

彼も大学祭に呼びましたが、「すきなだけしゃべらせないといかない。」ということだったので、彼の意向に沿って始めたら、何と5時間以上、おそらく6時間くらいしゃべり続けて、大講堂に300人くらいいた聴衆のうちで、最後まで残ったのは7名、そのうち2名はうつぶせに寝ていましたし、5名中の2名は主催者だったというすさまじい結末でした。

最後になりますが、渡辺さんからは、元特攻隊員の彼が転じて共産党員になり、生涯(今でも)熱心などぶ板的日常活動に専念されている話を伺いました。

こういう話は、学校の授業ではなかなか聞けませんね。レールから脱線して進んできたヤクザもんの特権でしょうか.
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by issei_tachikawa | 2013-11-12 22:14 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_10153921.jpg2012年11月7日、87歳の人生を終えて昇天されました。昨日は一周忌、家族・親戚40名ほどが八王子の都営霊園に集まりました。

終了後立川駅北口の「・・・」にて故人を偲びながら会食しました。

印象に残る話を少し。芳郎さんは女1人男5人の6人兄弟、末っ子で長野県諏訪の生まれ。4男の哲朗さんは92歳ですが、足腰しっかり記憶も鮮明、いつも参加者の心に染み入る話をしてくださいます。

昨日は、「感謝」について。芳郎さんは妻子にとってはある意味家族の長として絶対的な愛情と権限を発揮していましたが、いかんせんシャイなひとで、瑠璃子さん(義母)に「ありがとう」のひとことも言ったことがなかったが、もう余命いくばくもないと感じるようになった頃、哲郎さんに頼んだそうです。

「兄さん、おれが死んだら瑠璃子にありがとういってやってくれませんか。」と。ぼくは哲郎兄さんの話を聞きながら目頭があつくなりました。

さらに哲郎兄さんは、2人の娘と合いかた(つまり祐子姉さんと順子、草野孝毅さんと僕)にも「ありがとうをいってくれるように頼まれました。」とおっしゃいました。身に余る光栄です。

芳郎さんからは物に換えられない人生の価値を教えて頂きました。石橋をたたいて渡る後姿に、玉川の父(鋭治)にも共通し、さらに山本の遺伝子に固有の切なさと力を感じ取れました。もっとリラックスしたらよいのにと感じる場面でも、彼は自分なりにパーフェクトな生き方を追求していました。

結婚には理路整然と反対されました。住宅ローンを組み間違えた時には徹底して怒られました。でもあとで出来る限りの応援をいただきました。白樺湖に荷物を運ぶ晩には、1人で大型冷蔵庫を背負ったのには驚きました。すでに70歳は超えていたはずです。車山の上でスキー中に右足首を骨折したら、左足だけで1人で帰ってきたという武勇伝も懐かしい。

芳郎さん、あなたに誓ったことを僕は、子供らは必ず実行します。ストロング・ウイルをありがとう。瑠璃子さん、順子も元気です。ゆっくり休んでください。合掌
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by issei_tachikawa | 2013-11-11 09:59 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)

追悼 やなせたかしさん

c0219972_11422627.jpg金木犀横丁歩いていると、ユーミンの歌が聞こえてくる。

c0219972_11432199.jpgどんぐり街道をやまねこが行く、あとから賢治がやってくる。

c0219972_11435365.jpg三日月になったり

c0219972_11442076.jpg満月になったり

c0219972_11524185.jpgでも人生にはかならず終わりが来る。だからこそめそめそしないでたのしくやろうぜ。やなせさん本当にお疲れさまでした。子どもらに誘われてあんぱんまんを堪能しました。本当にありがとう。人生は80歳から、身体めろめろでも「人に喜んでもらえる生きがい」あれば恐いもん無しです。おかげさまで人生の目標がはっきりと見えてきそうです。

「戦争行って銃担いだけど一発も発砲してない。」だってさ。これはちょっとなかなか難しいことだよ。戦争ってのはやらないとやられる、やるかやられるかに巻き込まれた人間は、理性失って恐怖に突き動かされて殺す機械と化す。こうならなかったやなせさんには本当に頭が下がる。

インカの五戒、ブッタの戒めにもかならず「殺すな」がはいってるからな。他は、盗むな、だますな、怠けるな、
「喜んでもらえ」というのを今日から入れよう。
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by issei_tachikawa | 2013-10-17 11:48 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)

日記帳、エッセー、

c0219972_1717185.jpgベニートがインカトレッキングから帰ってきて初めての練習。いやーたまげた。ネイテイブになりきってるんだよね。音程、リズム感、体全体から発する気がもうほとんどペルー人、ケチュアなのです。きけば、クスコのペーニャ(ライブハウス)で向こうのバンドに混じって、コンドルとサリリふいたんだってさ。そうかーなりきっていたんだね。人懐っこいベニさんらしい。

あとうれしかったのは、ワイナマユでやってる曲もそれなりに向こうで今演奏されているという事実を知ったことです。今まではもしかするとアンデスかぶれの日本人グループのひとりよがりかもなー、現実のアンデスではもうフォルクローレはマイナーミュージックになってるとこも多いのではという心配もあったのですが、改めて心強くしました。

やなせさん逝去の衝撃が未だに身体に残っている。BIG ISSUE2006年1月1日(通産42号)に彼のインタビューが載っている。いわく「僕は人を喜ばせることが大好きなんだ。それが自分自身の生きる喜びにもなるんだよ。」と。ぼくも彼をカリスマ化するのではなくて、「みんな誰でもアンパンマン」の気持ちで悠々楽楽生きていこうと思います。

「僕は人一倍ノロマで怠け者だから、人が一日でやることが1ヶ月かかるのよ。」と謙虚な口ぶり。でも生み出したキャラは2000以上、こなした仕事がデザイナー、詩人、絵本作家、舞台監督など数え切れない。宮城まりこさんにいきなり電話でミュージカルの舞台監督たのまれて、初めてなのにやりきってしまうとか、この気迫がうらやましい。意見対立した専務のジョージュから「吉村さん、ならあんたがあしたから専務やれよ。」といわれびびって辞退した自分がまだ悔しい。道なき道を行くのが面白いのにね。もう逃げませんよ。

auの充電器紛失し買いに行きがてらレストランサラで昼飯を堪能しました。丁度「木曜日おしゃべり会」なので、吉村さんもどーですかと誘われましたが、まだ早すぎるという理由で今日は参加しませんでした。るぴなす合唱団の公演が高松町公民館であるそうです。サラのつながりは本当にあったかいね。さんきゅうカフェオープンチラシも配りました。

◎けやき台団地37号棟東側にコミカフェ「よりみち」がオープンしたらしい。こんどいってみよう。
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by issei_tachikawa | 2013-10-17 11:23 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_16551184.jpgながーいけどい一気に読める。とても痛快な、まさに「一寸先はひかり」みたいな対談だよ。

印象に残るやなせさんの言葉。
「もういつ死んでもおかしくないから、全部準備してある。」(仏壇、戒名、棺などなど)
「生前葬やろうとしてたんだけど、その日に大震災になっちゃったんでできなかった。」
「おれより大変な人がいるとおもって助けにいったよ。」
「やっぱりひとに喜んでもらえるとうれしいね。」
「ご当地キャラ500つくった。高知県だけでも5つ、でも金になったのは2つだけ。俺に頼むとただでできると思ってる人がおおいんだよな。実際ただでやってるからしかたがないんだけど。」
「手塚さん、石の森さん、みんな仕事やりすぎ。おれと水木しげるさんはいつもごろごろしてて、起きた時だけ仕事するから長生きだよ。」
「もういいっていうのに仕事が来る。」
「でもこんどはほんとうにもうだめだ。目よく見えないし、耳も悪い。もっと元気な頃にあいたかったよ。」
「長続きの理由は?ばかだったからだよ。」
「巨匠なんかになるもんじゃないな。黒澤明さん、清水こんさんいつもぐちってたし。おれはなれなかっただけだけどね。」
「昔の出版にはおもしろいやつ・運のいいやつがいてがいて、いつつぶれるかわからなかった会社が今はヒットだすようになってたり、世の中わからんね。」

これらは、ぼくの記憶したことばなので、現物とは異なる部分が多々あるかも知れませんが、1つ気がついたことがあります。あんぱんまんはやなせさん自身だったんだね。糸井さんもそういってる。アイシンクソーだ。

醍醐味はやはり、ライブを読んでください。検索ワードは「糸井重里、ほぼ日新聞」
http://www.1101.com/yanase_takashi/

やなせさん、94歳でお亡くなりになりました。葬儀はご家族で、なにか偲ぶ会みたいなものがあると思います。おれもいきたくなってきたなー。キョーシローさんのときも行きたかったけど、今回もなんか親しみを感じて、お別れの挨拶に行きたいと思いました。
謙虚で、笑顔絶やさず、思いやりを笑わせて表す  いやーまいりました。脱帽
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by issei_tachikawa | 2013-10-15 16:44 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_17164958.jpg
今週ワイナマユ水曜日練習が出来ないので、玉川上水いつもの場所で「ワラ」を吹き始めたとたんに、左の石イスに左方向から来た男性が座った。

この手の出会いは何回か体験しているので、わざわざ報告することもないだろーと思ったりもしましたが、今日のは自分ひとりだけで体験してはもったいないのでおすそ分けです。

彼は山本紀久さん、「中学んときはキキュウってよばれてた。」とのこと。ぱっと見70代の前半、でも実際は84歳だと!半ズボンなのでひざ下が良く見えましたが、すべすべの肌にはしみひとつ無い。顔にもしわやしみがなくてつやも良い。これはただ者ではないなとにらんで話し込む。

聞けば、三重県の生まれで、51歳で脱サラしてからは、かつおの1っポン釣り、庭師、信託会社の営業などをやり、今は大きな(・・・号サイズ)の絵を描いている。和船の会の会員でもある。4年後の米寿の年に、個展を開こうという計画で、今すこしづつ書き溜めているという。

「若々しいですねーなんかこつはあるんですか?」の問いへの答えは、「金ためないこと。」なんだと。貧乏を楽しんでいる感じかな。ミーツーだ。「地球上の土地は全てオレの庭だと思う。木も同じ。家なんか持つ必要も無い。全部がおれのうちなんだから。」ともおっしゃる。パチャママ信仰の逆説かな。車、貯金もたず、粗食《和食)をしっかり少なめに食べて暮らしている。

「今日の昼飯はごはんと大きな梅干、これで十分だよ。」といいいながら2人は大声で笑った。2人の声があまりにもでかいので怪訝な表情で通りすぎる女性もいた。

話のクライマックスは、インパール作戦の敗北だった。この話、ぼくは哲朗兄さんからも聞いていたので共鳴する点が多く見つかった。敗北情報が入ると軍の上の方から順番に逃亡する。トップは飛行機で、次は車で、その次はチャリでという具合に逃げ去り、哲朗兄さんは最期まで現場に残って証拠品を井戸に放り込んだり始末したあと徒歩でジャングルに逃げ込む。

残念ながら山本さんのお兄さん(10歳年上、かれは7人兄弟の下から2番目)は悪い水を呑んで帰らぬ人となったという。

話しながら不思議な感じに気がついて考えてみたのだが、なんとおじいちゃん(山本芳郎さん)にそっくりなのだ!1日に3人の山本さんと話が出来た。そしてうれしかったことがある。彼はぼくのことを「品が良い。達観している。こういう人の笛は音色もよいだろうと」いってくれた。これはまじでうれしい。彼も昔は篠笛吹いていたらしい。次のコンサート案内を届けること、米寿の絵画展に行くことを約束してわかれた。

ふとわれに帰って時計をみたら、5:45分、たしかココについたのは4:00ごろだから、2時間近くも話し込んでいたのか!帰りに彼から教わった「子宝桜」(写真)の前で、拍手・合掌して砂川に向かった。そうだ肝心なことを伝えなくては。彼はお兄さんを偲んで自宅南側の棚にコップ1っパイのお水をおいて祈っているという。合掌
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by issei_tachikawa | 2013-09-09 19:37 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_7593625.jpgパルシステム千葉の監事候補に上がっているそうです。今日の総代会で決まるそうですが、これは生協、とくにパルシステムのような異端(自他共に公認の)生協にとっては、非常に画期的で、素敵な事件だと思います。イッセー大賛成です。否決されないようにお祈りしています。

柳田先生の自己紹介:彼のDaily_Topics(Taking no risk is the greatest risk)より
「流通業に積み込んだときは、「灘神戸生協」が誕生直後、「岡田屋・シロ・フタギ」が合併して、JUSCOになったり、ユニー、ダイエーがGMSとしてナショナルチェーン展開に乗り出した時代でした。私は、当時関東で最大級と言われた西友新小岩店(ウルワースになって現存しています)が、途中入社の最初の配属店舗でした。以来、首都圏の大型店(売上No.1店舗)の既存店、開店準備室から新規OPEN、本部に移動してからも大型店事業部、商品部と商品開発業務を手がけた。
特に、後半の無印良品の開発、バーティカルインテグレーションによるマーチャンダイジング香港企業で経営・生産管理、現在のK-One inc.になってからの海外生産管理、JETRO,Japan ASEAN CENTERでの商品発掘専門家としての海外経験。などから、情報産業、SVJに端を発するNPO活動、現在の学術研究と、ある意味では、生協活動の成り立ちは知っていながら、異端児の目での事業・会計監査役を求められての、監事就任となっています。まさに、「よそ者」「わか者」「ばか者」視点と発想で、外部環境が変遷するなかでの、新たな経営戦略の構築にも、内部統制役が果たせればと思います。」


イッセーも40歳から生協に入ったので、、「よそ者」「わか者」「ばか者」視点と発想で事業や運動に係ってきました。あっというまに27年賀たち、気がついたらすっかり生協さんになっていました。朱に交わらずに、もっと赤く、もっと緑やピンクや黒も入れて、青白なんでもありのスタンスで、一生生協やろうとおもいます。

マネジメントの根本から違う視点で作り直すことを期待します。要は、人、人間力をどうすれば生かせるのか、地域における愛と協働の果たす役割です。

柳田先生、再出発おめでとうございます、改めましてよろしくお願いいたします。

プルーストのことば(金言)

☆真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。
新しい目で見ることなのだ。
マルセル・プルースト(フランス:作家。『失われた時を求めて』著)
The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in
having new eyes.- Marcel Proust

★今日は、パルシステム東京の総代会(10:00~13:00)
そのあとは、近所に6/22ステッチマルシェ関係の「イッセー通信」を配布します。主に都民投票で署名されたかのお宅にお届けしますが、もれている場合は080-5192-1463かa064kys@ac.auone-net.jpにご連絡ください。
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by issei_tachikawa | 2013-06-11 07:15 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)