どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

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・成功を継続と置き換えて振り返ります。
・モンドラゴンの協同組合で最初にできたのは、1956年電気関係の生産組合、たしかウルゴールだったと思う。1978年に読んだ『モンドラゴンの経済』では、洗濯機ではスペイン国内シェアトップと書いてある。これには驚いた。当時の常識では生産協同組合が市場競争で株式会社などの営利企業に勝つことは理論的に不可能であり、欧米の経済史でも拡大的に存続している生産協同組合はフランス、イタリアなどの一部に見られる例外的成功例にすぎないと言われていた。イギリスの労働運動研究者ウェブ夫妻の著書でその理由が詳細に述べられており、誰もがその分析評価を疑わなかった。
・ぼくは、1970年代何人かの研究者に混ぜてもらって、賀川とは異なる問題意識で戦争と環境破壊と収奪の資本主義でも1党独裁の上からの社会主義でもない「第3の道」を探していた。ちょうど当時は世界的に企業倒産の嵐が吹き荒れていて、日本でも大阪港地区の金属関係の企業、カメラのペトリ、靴のパラマウントなどの倒産が世の注目を集めていた。
・倒産企業の経営者が逃亡すると、技術者、営業、経理など他に移れる人は転職も可能だが、その道何十年の高齢職人労働者は転職したくてもできないことが多い。工場、機械を使って生産を続けるタタカイを、当時はこれを自主管理、自主生産と呼んでいた。僕は研究者の卵として、倒産した金属関係の会社の労働組合から頼まれて、再建のお手本とできる事例を探していた。生産組合研究会の仲間から紹介された『モンドラゴンの経済』に希望を見出した。
・そこでは、定説を覆すかのような勢いで生産組合が成長していたのである。スペイン語・バスク語は読めなかったので英語から翻訳して、論文にまとめると同時に、大阪で倒産企業の再建を模索する労働組合のみなさんにお話しする機会をつくっていただいた。それから30年以上たった今でもモンドラゴンは健在である。その成功理由は何か。以下本で読んだ事実をもとにぼくの想像も入れて8つの仮説的答をつくりました。
その1.リーダーの存在
モンドラゴンの賀川豊彦は、ホセ・マリア・アリスメンディアリエータ(以下アリスメンディと省略する)、彼もクリスティアン(牧師)1930年代の反ナチ報道で逮捕され死刑判決を受けたが運良く助命された。モンドラゴンに帰って生産組合を基盤とするゆるやかな社会変革を説いた。賀川のように熱心に現場を回って生産組合設立を呼びかけたのであろう。
その2.人材育成
教会が人材育成の学校になっただけでなく、大学も協同組合で組織された。学生時代から半学半労、卒業生の多くが協同組合の職員になるのだから、帰属意識も本物に近いのかもしれない。地域に無数にあるクラブのような場がオフジェーテーの場になっていることも考えられる。
その3.販路開拓
生産組合の生産物を同じグループの生協、他の生産組合、信用組合、農協などが買うだけでなく、積極的に国内、国外に販路を拡大できたことが大きい。アリスメンディもその人望で営業の後押しをしたのかもしれない。株式会社ではない営業の戦略、チームなどがあるのだろうか。
その4.伝統産業
バスクには冶金産業の伝統がある。資源も技術も職人も豊富なので、ウルゴールなどの生産組合はもてる経営資源を有効に使いこなして市場競争に勝って行ったのであろう。
その5.資金形成
CLP(労働人民金庫)の存在が大きい。組合設立資金の貸付、運転資金の提供、拡大でも大きな資金形成力を発揮してきたに違いない。地域からも多額の寄付が集まるのはバスクの地域力といえる。バスク人同士という連帯意識が協同組合の発展を支えていたわけだ。
その6.経営力、マネジメント
中央会の経営指導が適切だったこともあり、倒産が少ない。1980年に調べたときには、1956年から24年間で倒産した組合は1件だった。労働争議が長期化したこともあったが、理論的には賃金労働と資本の関係が止揚されて、労働者=経営者となっているはずだが、成長過程で非組合員(出資しない)労働者も増えてくるはず。最上級管理者と現場勤務者や一般事務者の賃金格差も当初の3:1以上に開いてきたという。この点はまだまだ課題として残されているのかもしれない。市場競争を勝ち抜いていくしか生き残れない非常の世界でいきるのだから或る程度は調整と妥協をしていくしかないのかもしれない。
その7.非暴力、政治的中立
バスクといえばエタ(ETA=バスクの祖国と自由、銃撃戦も辞さないゲリラ組織)、そこからの介入、誘いも多々あったはずだが、アリスメンディはやはり賀川と同様にガンとして「第3の道」を譲らず、彼らの路線とは明白に一線画して進んできた。これが中央政府とうまく交渉する要件になったといえる。
その8.中央政府との巧みな交渉
キリスト者のリーダーたちはマルクス主義者のリーダーには欠落している何か重要な交渉力を持っていたのかもしれない。賀川も1930年代は近衛内閣の密使としてアメリカに派遣されて日米開戦を止めようと努力したり、全米を回って「友愛の経済学」を説いて回ったらしい。アリスメンディと賀川の比較研究も面白そうである。
その9.これは重要な成功要因だが、生産協同組合、社会的協同組合が法律的に認められていること。日本ではワーカーズ」といっても同様の法律がないので不利である。12月20日に町田で「協同労働の協同組合」法制化に向けた市民シンポジウムが企画されていますが、さらにロビイングを強化する必要があります。。

いやはや、毎日読んでいただいて恐縮です。おつかれさま今日はこのへんで。亀田興起が勝ったようですね。おれは内藤を応援してました。まっどうでも良いことですけどね。 非暴力、平和、環境、エネルギー、地域くらしたすけあい、農と食、セカンドリーグでがんばろう! 明日天気になーれ・・・おやすみなさい。
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by issei_tachikawa | 2009-11-29 19:17 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)

賀川豊彦と大宅壮一

二人の共通点:正義感、貧困・差別・戦争などを放置する世の中への憤激(怒り⇒激昂⇒憤怒)、青年期の或る期間、共産主義(マルクス主義、唯物論)を正しいと思い込んで活動したことがある、キリスト教の洗礼を受けている。その後二人とも共産主義とは決別している。
二人の相違点:贖罪愛(神の愛、アガペー)への信仰を維持質しつづけたどうか(賀川=yes、救霊団、イエス団。大宅=no)。社会変革の継続=生涯の活動・運動状況、実績・・・賀川=協同組合運動、労働運動、農協活動、共栄火災、中之郷信用組合、世界連邦、1930年代の平和活動、戦後・・・日本社会党での政治活動。大宅は、ジャーナリストとして文筆活動、講演活動、死後⇒大宅文庫がオープンした。
【興味深いつながり、人間の2側面】
 人間は、徹底して自分の世界に沈潜して何かを追求し極めたいという欲望(小説、研究、創造、表現など)と仲間、同士を求めて人と結合し社会的存在(諸関係の総体)として了解しあいたいという欲望を併せ持っているのではないか。天才と呼ばれる人の中には、この2側面のどちらかが異様に強くその人の実績を作っている人がいる。賀川の場合は社会性が、大宅の場合には、個体性が際立っている。
 一見すると両者は対立物のようだが、実は相互に愛し合いひきつけあっているようだ。どちらに転ぶかは単に個人的な選択力に規定されるだけではなく、周りとの関係性、義理のしがらみ、男女交友関係、利害関係など様々な要因がかかわっている。それから案外ばかにならないのが、身体=健康上の理由に基づく天啓を受けているかどうかもその人の人生を大きく左右することになる。賀川の場合は、肺結核による切望的な状況下でのおつげ(天啓)があったといわれる。これを真面目に受け止めて生涯それを信じて贖罪愛に献身した賀川の人生は果たしてその後の日本人」にとっていかなる意義と意味を提起しているのか。
  他方で大宅には明らかに個体的に完結する諧謔精神を感じる。彼とて人間性に対する信頼を失ったわけではないのだろうが、賀川のように首尾一貫した贖罪愛信仰は持ち得なかった。目の前の周りの人間たちの日々の現実性(現象)の中に無限の好奇心の対象を発見してしまう自分を肯定せざるおえなくなるのだ。
  したがって問題は賀川か大宅か、という二者択一ではなくて、どちらも面白いというあれもこれもの多元的な付き合い方で学んで生きたいと思う。2人のことを話しているといつの間にか自分のことを語るようになっている。これはなんなんだ???人間っておもしろい。今日は、13:30から有楽町の商工会館で「賀川豊彦とともに明日の日本と協同組合を考える」講演会&パネルディスカッションがある。前田さん、斉藤さんとオレの3人でいきます。閉会は16:30、その後も楽しみだな。
●昨日の帰りの車中で「賀川豊彦の協同組合主義が今日の日本社会に問いかけるもの」(加山久夫=賀川豊彦記念松沢資料館館長、明治学院大学名誉教授)を読んだが、「協同組合」と「主義」って言う言葉が俺の頭の中で溶け合わなかったように思う。23年前、オレ(たち)は、なぜ立川生協にかかわったのか、その後おれは何度もやめたくなったしやめようとしたのにここまで続けた理由は何だったのか(継続力の要因、ポジ、ネガ)
セカンドステージって何か、セカンドリーグ(支援室、地域リーグ、地域NW)は何をやりたいなか・何をしようとしているのか、2007年から3年間かかわってきてオレのアウトプット、アウトカムは何なのだろうか。
  1つ確実にいいきれること。オレは変わった。もう一度10代の気持ちに帰って社会・パル・自分を考えられるようになった。入協前というか地域生協をやっていた頃の経験が今ようやく活かせるようになった。言い換えると何かに向かって準備が整いつつある。これもセカンドリーグで仕事をしている=させていただいている=自分でつくってきたおかげかもしれない。ようやくこれからの3年計画もできあがりつつあるし、1日1日をしっかり楽しんでいこう。さーて今日もいくぜ!
  
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by issei_tachikawa | 2009-11-28 09:51 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)
・おかあが作っていった「まぜごはん」にのりの千切り、きゅうり・あかかぶの米麹づけを添えて出した。
最初は「なんだよーこれは、キューリなんてくわねーよ。」といっていたが、「目瞑ってくってみろ」と押し付けた。そして食ったらどうだったか。「うめーよこれは、なんだよこれは。」といっている。「まただしてくれ。」とまでいう。キューリの米麹味が気に入ったらしい。このあまりにストレートな変化におれもびっくり喜んでだ。やっぱり「三つ子の魂百までも」「教育の根本は食育、そのまた根本は強育なのだ」とつぶやきました。
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by issei_tachikawa | 2009-11-27 23:13 | 家族 | Comments(0)
・お昼の散歩から帰ってきてエレベーターに乗ると後から、共済事業の大伯さん、石川さんが入ってくる。「4階ですよね。」と確認して4階のボタンを右人差し指で押す。左手親指で「開」をキープしていると、後からマーケッテイングリサーチらしき人がはいってきたので、「7階ですよね。」と言って7階ボタンを押す。エレベ^ターが上がり始めたら、「吉村さん、8階じゃないんですか?」と言われて苦笑い。間髪いれずに『宇宙っていうボタンが無いんで。」といって笑いをとる。これがオレの人生、毎日毎晩日々刻々笑いを求めて旅をしている。
・笑いが宇宙を包んでいく時に、市場原理主義的資本主義でも一党独裁官僚国家的中央集権的計画経済(これは人類史が求めていた社会化された人間解放のシステムではない!)でも単一宗教の専制国家でもない、結構面白い社会がうまれてくるのではないか。
・寺下くんのことを考えていたら俺のいいかげんな何でもあり人生を振り返りたくなって、「今まで何の仕事をしてきたか」職業遍歴たな卸しをしてみたくなった。
①牛乳配達(名糖牛乳)
②中央郵便局から郵便局への配達(東京駅丸の内口)
③就職ガイドブックの営業(㈱ダイアモンド・ビッグ社、虎の門)
④英数進学塾(レオン社 近江八幡)
⑤測量補助
⑥シロアリ消毒(三共防疫)
⑦朝鮮人参酒営業(大畑物産)
⑧建築現場日雇い(小笠原建設など、土工、鳶)
⑨バンド(4つのキャバレーで)
⑩バッテリー製作(目黒電気)
⑪家庭教師
⑫盆栽職人見習い(実家手伝い)
⑬翻訳(英語、フランス語)
⑭通訳(英語)
⑮NPOのお弁当配達手伝い(NPO法人 高齢社会の食と職を考えるチャンプルーの会)
⑯競輪場清掃(自立生活センター立川、育て上げネットとの共同事業、市からの委託事業)
⑰ワンパック野菜配送(三里塚)
⑱高速道路の壁材製作(日本ペイント)
⑲立川生協職員、常勤役員(配達、拡大、業務)
⑳連合会職員(首都圏生協事業連絡会=じぎょうれん⇒首都圏コープ事業連合⇒パルシステム生活協同組合連合会)
こうやって並べてみると、肉体労働と精神労働どっちもやっている。企業の位階制の中では一挙に常務(役員)に成り上がったと思ったら連合会では12年間万年係長、後何年かで定年退職の時期に課長になるというパルらしい昇進ぶり。辞令が出たのは内示の10分後というのもパルらしい。(大笑い)
・トップに立ったことが無いのも個性だね。もっともフツーの人から見ればトップになるほうが珍しいのかもしれないけどね。
・これからの10年、20年、30年が楽しみになってくる。一日一日、日々刻々のつきあいコミニケーションを楽しみながらやっていこうと思う。
●あっという間に師走だ、みなさん風邪ひかないようにね。
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by issei_tachikawa | 2009-11-26 13:42 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
国際活動委員会の事務局として職員・組合員・理事(元西多摩の澤田さん、元タマ消費の齋藤さん、元立川のこばやん、元エルの阿久津さん、塚田北多摩生協理事長が団長)など約20名で1週間滞在した。
・空港からホテルに向かう途中のタクシイでカクさん(中央会初代会長)とドライバーが話している雰囲気はもうほとんど喧嘩(口論)だが、2人とも笑顔なので「ハングルってのは出だしがシャープなんだ」と理解した。
何はなしているのかはわからなかった。
・当時のぼくは【銭湯マニア】だったので、さっそくいってみてびっくり。朝4:00から開いていて、8:00なのに大盛況。男性が多い、当然か女風呂には入れないのだから。(爆笑)通訳のファン・インドゥに聞いたら「近所の商店主とか企業の経営者が仕事前にくるんでしょう。」という答。それで脱衣場の正面に床屋があるのも頷ける。
・【風呂屋のサービス】も念入りで、湯殿への入り口のケースには、T型の髭剃り、ミニ・シャンプー、ミニ・石鹸、タオルまで置いてあって、無料で使える。で入場料金いくらだったっけ?残念忘れた。湯殿の天井に穴が開いている、何?と思った瞬間に水が噴出したのでまたビックリ。どこからかマッサージをしている音(パンパンパパーン!)が聞こえるので探したら、湯殿の角にマッサージコーナーが設けられている。これはオプション料金。あと、脱衣場の右奥の暗がりにはベットがたくさん並んでいてゆっくり休めるようになっている。仕事に遅れる危険が?などと考えるのは俺も日本人だからなのか。
・訪問したハンサルリム生協の店舗はまさしく昔の事業連当時の会員生協(ぼくは立川生協)事務所のようにおんぼろだった。ノスタルジアを感じるとともに生協に係わり始めた頃の初心(ハングリー精神、好奇心、提案し実行する意欲と喜び、充実感)を思い出した。
・【抗菌・除菌・殺菌の清潔地獄とは無縁の街】ソウルの道路は超幅広で、片側5車線もあったような気がする。その大通りを泥だらけのベンツなど高級車が走る。タクシー、バスも薄汚れている。明らかに何日かは洗車していないか、ソウルが埃だらけだということだ。デパートの大トイレが水浸しで入れなかった。
・南大門の市場ではリーボックのスニーカーや革ジャンが格安で買える。自由時間に皆で買い物していたら1名が行方不明になったので、通訳のファンさんに探してもらったら、革ジャン店の事務所に「招かれて」売り込み最中だった。トラブルにはならなくて良かったがひやひやした。「ソウルの市場はおっかねー」の印象。
・バスを待つ何十人かが、全く並んでいない。これは大阪も似ている。東京ではありえない。やがてバスが急カーブ、急ブレーキで停車するが、ドンだけスピード出してたんじゃろかとまたビックリ。お客は先を争って人を押しのけるように仲良く乗り込む。町全体がナーバスな東京だと直ぐに喧嘩が始まりそうだが、ソウルは車のスピードはすごいが人心はのんびりしているように感じた。(オレの贔屓目ではないと思う)
・ソウルからテジョン(大田)まで乗った大型バス、座席のスプリングがこわれている。道路の舗装も完璧でないらしくて、バスが穴に入るたびにバウンドしてケツがいたい。でもおれは、だんだん韓国が好きになってくる。日本はきれい過ぎる。管理管理と夜も眠れずだ。比べて、ソウル、テジョンは、きたなかったがのんびりしていて民族独立心・威厳も失っていない感じがした。英会話達者な人は多いが、「コミニケーションと商売ツールだから」と割り切っていて、英語、アメリカへのあこがれなどは感じられなかった。むしろ気分は反米?!
・テジョンの駅前、日本で言えば京都か大阪、名古屋駅前くらいに賑やかなところで、真昼間の3時ごろ、何十人かの人だかりができているので?と思って覗いてみたら、おじさんが糸を握った拳を上下させている。その糸をずーっと先端まで追っていくと、なななんと親指のつめくらいの黒い物体が左右上下にゆらゆら揺れている。凧だ!と気づいた頃、何十人かの主婦らしき女性のデモがシュプレヒコールあげながら通り過ぎる。聞けば選挙が近いそうだ。
・テジョンの信用協同組合も訪問した。何を学んできたのか、良く覚えていない。だめだなこりや。問題意識が希薄な状態で海外研修旅行にいくと時間と金の無駄に終るとみるか、リフレッシュしてきてモチベーションが上がるメリットを評価するか経営判断が問われる。オレの場合は無駄ではなかったと思いたい。
・カク先生に連れて行ってもらったカラオケが超印象深い。団塊世代の客がやたら元気で踊りまくる。1960年代のゴーゴー喫茶か1950年代の歌声喫茶のようだった。この元気はどこからやってくるのか、不思議うらやましい。牛乳で割った安もんウイスキーをあおりながら歌い踊りまくる。
・交流会の時に、誰かが「イッセーさんあなたは日本人じゃないだろ。日本人には見えない。」というので、まんざらでもない気分になったが、今になって「韓国生協の人がそのとき持っていた日本人のイメージの由来は何か」を考えてみる。おそらく1つの答は、南大門あたりの市場でカメラぶら下げて、きちんと刈り上げスーツスタイルで観光に来る日本人の姿ではないかと思う。言い換えれば日本庭園の庭木のように刈り込まれていておとなしいのだ。何を考えているのか感情の核が見えないということでもある。
・なるほど、彼らの感覚は50%あたりかもしれないが、日本人にもいろいろいるという事実は押さえておいてほしい。いろんなやつがいるのは日本に限らない。人間社会というものは多元的なのだと考えるほうが未来が明るく見えてくる。一般論でやり合って行き着く先は対立・論争・戦争の危険が、逆に個別現実論でヒト・モノ・カネをとらえていけば、ハンズオン的な現場感覚から全体と先が今までと違って見えてくる。
・いつか飛行機に乗る決意と暇と金ができた暁には、ソウル、テジョンだけでなく、プサン、クワンジュにもいってみたい。そろそろハングルの会話も勉強しようと思って、イ・サンジョさんに電話した。ハングルの絵本も注文した。英語、フランス語、スペイン語など西側言語ばかりやってきた自戒の念を込めて、これからの何十年かを「根本からはずれないにように」生きていこうと思う。アジア・日本・そして?!吾らはプリパラ 
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by issei_tachikawa | 2009-11-25 15:45 | 自分史 | Comments(0)
c0219972_20102383.jpg1965年10月15日 日韓友好条約批准
・生まれて始めてのデモ 清水谷公園での集会
・日韓友好条約の批准に対して、クラス討論でR先輩は「営治の学友諸君!今こそ日本帝国主義のアジア侵略の切掛け条約批准を阻止しよう。」と熱烈に呼びかけた。黒板に白墨が飛び散るほどに力強いアピールだった。
・ところがぼくは御手洗辰雄氏の新聞社説を拠り所にして「共産主義の脅威から日本など自由主義国を守るための同盟は必要」と主張していた。
・でもR先輩の熱意と雰囲気に惹かれて試しに参加してみたデモのジグザクでカーブする瞬間に隣の女性の肱の柔らかさや暖かさが伝わってくる。なんとなく気持ちがいい。
・いずれにしてもエスカレートするベトナム戦争、北米空軍の北爆、枯葉剤の散布、泣きながら逃げ惑う子どもたちなどのマスコミ報道が連日あっても大学では普通に授業が行われている。「先生や先輩たちは何故だまっているのだろうか、兄弟で考えている人はいるのだろうか」たくさんの何故が生まれました。いやがおうにも「自分はどうすべきか」について悩み考えました。
・【重要】キューバ危機、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン侵略、イラク侵略など1945年以降も「戦争」は続いています。沖縄は米軍基地のままであり、このままでは日本に戦後はありません。

●クラスで学習討論会
・外堀コールのSが紹介してくれたマルクス主義の入門書をみんなで読みました。使用文献:『空想より科学への社会主義の発展』『賃労働と資本』『賃金・価格・利潤』など
・休日にわざわざ狭山青年の家などを借りてクラスで討論しました。いくらはなしあっても話は尽きませんでした。一番盛り上がったのはSEXについてだったかもしれませんが。(笑い)
・跡美女子大の美術部サークルのMさんと出会いました。当時のぼくにとってはたまらないほどセクシャリテの高いひとでした(大学は茗荷谷本部から徒歩5分)
・学習会の議論のなかで、ぼくが高校時代から心の奥底で抱くようになっていた左翼的人々への差別的なイメージ(僻みっぽい、恨みがましい、しつこい、暗い、理屈っぽい、冷酷など)がしだいに消えていきました。このことを人々は「洗脳された」というのでしょうか、いずれにしても65年は自分の政治的スタンスが「日本」の伝統、日本人的情緒優先、資本主義擁護、から次第に反帝国主義に傾いていく岐路になりました。   

●D氏との出会い
・D氏は大学に8年間在学、60年の安保闘争の体験者、自民党晴嵐会N氏の秘書だったといううわさも聞いたが真相は不明??
・当時流行だったトレンチコート、明治の文豪風丸めがねなどがかっこよくて、後輩の面倒見も良かった。井の頭線の浜田山アパートでご馳走になった鍋物、女性遍歴を象徴するアルバム、酔いが回るほどに饗が乗り島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」の暗韻が始まる。彼が論争している時とか守衛さんを問い詰めている時の姿は宇宙戦士のようでした。
・アルカディア市谷の結婚披露パーティで一人芝居パフォーマンスと逆立ちでお別れしました。

●再建統一ブントへ
・D氏は結婚し父の事業継承で北海道に帰ることを決めてから、僕を岩田弘氏に会わせました。名目は、経営学部自治会の機関紙創刊号にお願いする原稿打合せ。
・その時レーニン『帝国主義論』と比較しながら展開された『世界資本主義論』はブント再建大会の綱領のベースになっており、氏は、60年代の新左翼運動のカリスマの1人でした。この出会いの後で経験した様々な出来事を思い出すと縁とは不思議なものだと思います。氏は80歳を超えた今でも著作活動を続けています。其の点は尊敬に値しますが、マルクス主義も西側から来た思想・理論の限界をもっていますし、今はパルシステムに自己限定して活動するスタンスが身についていますので、深入りして学びなおす気にはなれないというのが本音です。
・彼の隣にいつも座っていらっしゃったのが奥様(小林多喜二のお孫さんとか?)だったらしい。

●団塊世代の同志たち がんばれ!
・ドイツの緑の党等に比べると日本の団塊世代の学生運動経験者で、今でも世の中に発言し行動で世直しを継続している仲間は少ないと言われますが、ホンマかいな?パルシステムを立ち上げた団塊世代の同志たちの存在は今のぼくにとって暗い日本に希望をもたらす一筋の光明です。60年代にわれわれが変革対象としたマスプロ大学教育、官僚制度、利潤優先公害垂れ流しの経済成長優先政策、ベトナム・湾岸・アフガン・イラクと連綿と続いている北米主導戦争、基地の町沖縄に負担を押し付けて「豊かな」生活を享受しているのではもうしわけない。21世紀での新しいタタカイを挑みましょう。世直し本番はまだまだこれからです。

●自分固有のゲバルト精神と火事場のくそ力(なるべく使いたくありませんが。)
・ ぼくは1965年~66年は丸坊主、学生服姿で動いていましたので、最初に自治会室のドアをノックもせずに入ったときに、会議中だった執行部は総立ちになり近くのツールに手をかけた人もいたとか。
・1968年末位から学生運動で次第に学内の内ゲバが始まり、深夜に家から木刀片手に市ヶ谷キャンパスを東西対角線状に横切って図書館(全共闘側の拠点)に向かう途中、左手の社会学部前で焚き火をしている黄色と青のヘルメット集団を発見。敵対党派の軍団でした。しかしほとんど怖くありませんでした。
・中学1年時、受験や就職に何の価値も見いだせなくて、近所の中学の島荒らしをしていたこともあり、けんかなれしていたというか善悪の捕らえ方がユニークだったようです。
どんなにヤバイ状況下でも、冷静に周りを観察し、どっちに向かえば勝てるかを瞬時に決めて動く動物的直感がぼくは人一倍鋭いようです。天性+トレーニングの賜物。
もしかすると合戦になると祖先の血が騒ぐのかもしれません。
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by issei_tachikawa | 2009-11-23 20:43 | 自分史 | Comments(0)

箱根組織革新研究会

c0219972_16214531.jpg森繁久弥氏が昇天された。96歳、朝目が覚めたら「知床旅情」が口をついてとびだした。歌いながら思い出したのは、箱根組織革新研究会のFIラリー。
(FIラリー)というのは要するにハードなウォークラリー競争によるリアルとバーチャルが渾然一体となった「研修」なのだが、最初のガイダンスで、「今からみなさんが体験するのはいわゆる研修ではありません。息抜きしたくて来た人は今すぐに帰ってください。」といわれる。ほほーなかなか挑発的ですなー面白そうなのでやってみようという気分になった。でも何故か内心しらけた気分がきえないままに本番にはいる。
・最初にやったのは、マップづくり。コースを数人で回って、要所毎の目印を見つけて、地図に記入し、自分のチームメンバーが回る際の案内書をつくる。やってみるとかなり時間がかかる。同じところに行ったのに記憶がづれていたり、それぞれの記憶した「事実」を出しあいながらマップに落としていく。
・本番の前半結果はビリ!(ブービー)だった。チームはまさに尻に火がついた状態になり、約10人がリーダーを交代して一丸となって後半戦に挑戦し、10チームの中で3位に上昇した。所定の時間に近いところでゴールしないと負けなのでラストの100mくらいはまるでマラソン大会の直線ゴール直前という感じで、和歌山市民生協の大山さんと励ましの声かけあって走った。暗闇の谷底に落ちそうになる場面もあった。
で、何が良かったのか?
①現場の「事実」を自分の目で見て確認した情報を整理し、情報化し、チームで行動する事の意義を学んだ。
 事例:地図づくり
②組織は人なりを実感できた。人と人とのコミュニケーションの徹底が今まで想像もしていなかった人間力を生み成果をもたらすことを体験できた。
 事例:F1ラリー 前半ビリから後半3位への上昇
③肉体的、精神的「限界」に挑戦できたこと。人は変わりうることの現場的証明をチームでできたこと。
 事例:3泊4日の研修が2泊4日(徹夜が1回)になっても大丈夫だった。
それで何を得たのか?
1)友達ができた。当時の、コープ広島 常務の岡村さん、とちぎコープの豊田さん、Fコープの増田さん、東葛市民生協の野手さんなどなど。岡村さんを通じてコープ出版編集長だった矢野都紀子さんとも知り合い、『生協運動』(現NAVI)「アフター5」に載った。『のんびる』8月号『交遊記』で紹介したのも彼女です。12月には彼らと久しぶりの呑み会をやります。
2)やればできるという自信がついた。(付け焼刃的だったかもしれんませんが)
問題というか課題も生まれた。
①箱根の「事実」と職場の「事実」とのづれに呆然として立ちすくんでしまう人が多いのではないか。そもそも生活(食事、洗濯、掃除、子育て、家事区、近所、地域など)の基盤から隔離された空間で集中学習した成果は着陸地を見つけられない戦闘的飛行士をつくるだけに終る危険を孕んでいる。
②事前に入念な健康チェック(診断すれば全てがわかるわけではない!)をしないと大事故が起きるリスクも高い。実際に研修中にお亡くなりになった方もいると聞く。
③人はいつでもどこでも熱くなれるわけではない。モチベーションの高い人、低い人いろいろいるのが人間的組織の事実であり、生産性向上を最優先させる企業社会は多くのメンタルや人間関係のトラブルを生み出す危険がある。
●藤田一(はじめ)先生からは、「あなたのような上司の下で働く部下は不幸だと思う。」といわれたままなので続きの論議をお願いしたいところです。まあ、いろいろ問題も残っていますけど、「知床の岬にはまなすが咲く頃・・・」と歌いながら、研修最後の打ち上げでケーナ(花祭り)を吹かせてもらい、豊田さんと団結踊りに興じたシーンを思い出しています。みんな肩組んで泣きながら歌ってたな。

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by issei_tachikawa | 2009-11-11 12:10 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)
c0219972_15531847.jpg人生喜怒哀楽というが、嬉しい楽しいという感情(幸せ感情)はほとんど残らない。半面で悲しい怒った時の感情(不幸感情)は心の奥底ででーんと沈殿していて、酒飲んだりして気が緩んだときに一挙に噴出したりする。違いますか?あなたの場合はいかが?
  その理由について考えてきて、今の仮説はこうです。人の脳(扁桃体、海馬)身体は他者の不幸な境遇に共感共鳴できるようにできている。だから自分の体験を何時までも体が忘れないように、不幸な人が目の前で泣いていたり困っていたら見てみない不利をしないで、救いの手を差し伸べられるように準備をさせている。
  比べて幸福体験の感情が後になってこみ上げてくるなどということはない。それぞれについていくつかの事例を見てみましょう。(もっとも全てイッセーの自己体験ですが)
・小学生の頃?入学前かも?ある晩、愛犬の「ページ」がいないことに気づき、母に聞いたら「酉二兄さんの後くっついてったんじゃないの。」というたんぱくな答えだったと思う。いくらまっても帰らない「ページ」のことを思い出しながら泣きじゃくった。爪で壁をひっかいて割れそうになるまで。
・高校3年 甲子園夏の大会神奈川県大会 準決勝 武相高校に5-4で敗北。控え室でだれかがなきだしたらもう止められなかった。悔し涙とピッチャー起用をミスッった監督へのうらみつらみがいまだに消えない。監督には気の毒だが許せないものは許せない。
・最近の話。クロ猫が門の前に倒れていて三日三晩の介抱の甲斐なく息を引き取り、泣きじゃくるジュンコをみながらオレももらい泣き。大地に返す前の墓穴の底に稲藁をひいて寝かせた。土をかぶせながら祈りながらまた泣いた。追悼、弔いの涙。
  比べて嬉しかったほうの感情はどうですか?ある瞬間にこみ上げてきますか?ぼくの場合は、臭いや風景、お袋の味とか女性と寝た快感の記憶などはよみがえってきますが、そのよみがえり方は不幸体験に比べると現在進行形に近いものです。
  例えば、朝飯のしたく(喧騒)の中で、にこにこ鼻歌をうたっているジュンコを見ながら、「この人でよかったなー。」としみじみ思ったりしますが、この記憶は何十年間も海馬に記憶されることは無いでしょう。この違いはどこからくるのか。
  不幸体験については、その理由は最初に書いたことなのです。幸せ体験については次のように整理できませんか。天は人が幸せに酔いしれていい気にならないように、常に不幸感情を記憶装置(海馬)にしまいこむように人をつくり、逆に不幸で打ちのめされそうになってもどん底から這い上がってくるエネルギーの源泉を夢とか希望として見出すようにつくっていると。
   でもチョット待てよ。今までの私小説的な不幸もつらいけど、自分を責めて亡くなってしまう人が年間4万人近くに達して、いじめたりいじめられたり切れやすい人が増えてきたり、侵略戦争で何万人もの命をうばっている(イラク、アフガニスタンの現在形)犯罪人が何の処罰も受けないで日本シリーズの始球式にそろってお出になるというような現実にもしっかり目を向けていかなければなりませんね。
   プラス思考とかマイナス思考の問題って言うのは良く考えるとなかなか単純ではないのですね。みんなでたすけあえる地域をつくっていこう。考えているだけではあかん。行動、思考、発言、表現、ネットワーキング全ては、人が人として生きていくための大切な営みなのですから。
●伊藤千尋さんの『ゲバラの夢・・・熱き中南米』(シネフロント社) 東京駅の八重洲ブックマート、高田馬場芳林堂に無かったけど、池袋ジュンク堂にあったので一揆読み最中。ジュンク堂さんでは先日「のんびる」で南伸坊さんトークショウとバックナンバーフェアをやらせていただきました。やはり何かのご縁でしょうか。


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by issei_tachikawa | 2009-11-07 15:38 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)
 c0219972_9332215.jpg山本さん、前田さん、イッセーの3名で松沢資料館(賀川豊彦記念館)に行ってきました。来年3月6日のシンポジウム(ユーアイ基金構想と賀川豊彦・・・仮称)の打ち合わせのために。
 加山久夫館長(明治学院大学名誉教授)と山本さん、前田さんとのやり取りを拝聴しながら、「それぞれなかなかの見識だなー」と驚いたり、自分の協同組合への係りの過去を振り返ったり、3月のシンポジウムをセカンドリーグ(地域セカンドリーグ&支援室)機能のレベルアップの為にどのように活かそうかと考えながら聞いていました。
  1977年から78年にかけて『モンドラゴンの経済』を訳したときにホセ・マリア・アリスメンディアリエータ(アリスメンディと省略)という神父さんに興味を抱いた。モンドラゴン協同組合連合は生協関係者なら知る人ぞ知るバスクの協同組合連合体で今も発展している。アリスメンディは1930年代は新聞記者で一度フランコに逮捕されて死刑判決されたのだが、助命されて地域に入ったときに、中央政府ともうまくやりながらバスクの発展と自立をめざすには協同組合方式が良いとみた。
  若い活動家を誘ってウルゴールという家電生産組合を作る。彼の机の引き出しには「毛沢東語録」が入っていたという。彼は主義や所属組織で人を分けてしまうのではなくて、個性豊かで生身の人間から組織を構想していく。ここは賀川とアリスメンディは似ている。「世界連邦構想」の閣僚的メンバーには、現在民主党、社会民主党で活躍する大臣クラスの人から、なんと福田康夫さん、中川秀直さんまでが入っている。200人委員会には共産党の方も入っているという。もしかすると旧新左翼からも誰かが?ならもっと面白い。でもこれってイタリア、フランス、南欧の政治世界ではそれほどユニークなことではないかも。かって1968年フランス・パリ5月革命の指導者の一人、ダニエル・コーンバンディはそのご「緑の党」に係り、今でもEUの政治に少なからぬ影響を及ぼしていると聞く。団塊世代の同士諸君、あと30年の間に何とかしようぜ!
  話を、元に戻します。両者とも貧困、差別、独裁政治、戦争に反対する正義感も共有する。事業家としての発想もある意味破天荒であると同時に着実にひとつひとつ実現して聞く経営者としての才能や人望も持ち合わせている。たまたま2人はジサスとであってクリスティアンになったが、場合によっては別の宗教や思想の洗礼を受けていたかもしれないという興味もわく。記念館で初めて聞いた賀川豊彦の声はとても澄んでいてここちよい。4歳で父を、5歳で母を亡くし、里子に出されていじめられ、孤独の環境で訪米し、まさに『次郎物語』(下村湖人)だね。当時の彼にとっては、虫や鳥や草とのコミニケーションが心を癒し、ローガン博士が親父代わりだったのかもしれない。ぼくが1977年に翻訳した『モンドラゴンの経済』の著者もたしか何とかローガンという人だったと思う。何らかのつながりがあるのかもしれないので調べてみよう。

三浦さん、前田さん、山本さん、3人とも気持ちのいい笑顔だね。悲しみのどん底から這い上がってきた人々の笑顔、おもいやりと優しさが、天からの啓示を受け止めて世直しの原動力になるであろう。「赤子になれ!」(豊彦)悲しみを乗り越えて無邪気に楽しみながらやろう。

賀川が献身生活を始めた貧民窟の地図、一軒長屋、トイレや風呂は何十件に1つしかなし。でもそこには生き物本来の友愛と協働がライブしていたのだと思う。あなたは、サポーター?プレーヤー?プロヂューサー?それともコーディネーターかな。傍観者、評論家という立場もあるか。

後列中央の精悍な表情の若者が賀川豊彦、「天国屋」という一膳飯屋を開店したが無銭飲食が多くてすぐにつぶれた。でもめげずにブラシ工場、賀川洋服、農民組合、信用組合(中之郷!)、共栄火災、生協づくりなどに精力的に係った。とくに関東大震災、大水害などでは天賦の能力を最大限に発揮したといわれる。うーんなんとなくわかるぞ。
賀川は化学将棋とか分子カルタなどもつくって教育素材にしようとしたが、当の子どもたちには難しすぎたらしい。(満点大笑いか)
)賀川論の中では大宅惣一のが面白い。でも愛と革命、女性論、セックスと人間論、欲望と宗教と神についてはかなり??だな。天皇制とか天皇裕仁論については「雑草という草はございません。」というセンスについての評価は同じだ。つまりアイシンクソーということ。天皇制とか神道が侵略戦争に短絡するのでないことも当然だと思う。

人生最も大切なのは、人の笑顔だね。
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by issei_tachikawa | 2009-11-06 19:26 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)