どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

<   2010年 06月 ( 6 )   > この月の画像一覧



・競合相手がシステムで先行していたのでこちらは、
①産直品(牛乳、豆腐、ハムソー)の試食、販売。懇意のレストラン使用 
②展示即売車で移動方式
③音楽、パフォーマンスを入れたイベント 
④夕方展示即売、土日夜の戸別訪問、的屋の口上を真似て呼び込み
⑤地域生活マップ活用、面展開
⑥ガリバン手刷りのチラシを自分で配布、1日2000枚、お手紙(メッセージ)付き。
などで競合を勝ち抜いた。都民生協には勝率90%、生活クラブには80%、東都生協とは互角で競いあった。

① 千倉南部漁協に展示即売前日に秋刀魚の鮮魚をケースで発注し、入居直後の団地(桜ヶ丘)で販売したり、奥多摩の農家から朝もぎトウモロコシをトラック1台分仕入れて売りながら班をつくった(3タテ市場)。団地のレストラン(ラルゴ)の店主 福島氏と意気投合し、海老名畜産の肉類の試食をした。
② ライトエースに青果のペイントをし、内部に移動販売用の棚を設けて、売りながら拡大。こんせん牛乳、共生食品の豆腐、川鍋養鶏の生みたて卵、白州町の赤玉有精卵などが役に立った。
③④ 即売車からスピーカーで花祭り等のフォルクローレ、ユーミンなどを流し、即売会の呼び込みは虎メガで行い、即売会ではテキ屋の口上をアレンジして面白おかしく売りながら、たくさんの人と仲良くなりスムースに加入を勧めた。産地、業者さんが作ったチラシをうまく使って説明会用のファイルを作成した。説明会では上記の産直品の試食を十分にしていただいて、納得して加入していただいたので供給促進効果も発揮した。
⑤ エリア内の保育園、小児科、歯科、自然食品店、公園等の遊び場、有機農家との地場産直、温泉などのマップを作成し、新入居者に渡しながら加入のおすすめをした。他地域からの新入居者のお役に立てたらと考えた。グループ目高舎、エホバの信者などとも仲良くなったので、口コミ営業効果を発揮できた。
・要は、「原則的なことをしっかりやっていればそこそこの結果はでた。」のかもしれないが、システム的なハンディについては常識をくつがえすような工夫をして乗り越えようとしたということです。
 在宅率が低い平日の昼間以外に、夕方の団地に即売車を止めてパート帰りの主婦に営業したり、土日の午前中に戸別訪問したり、いろいろと工夫したものです。営業メンバーは、正規職員1名(男性40歳)、管掌理事1名(女性30歳代)、定時職員最初は1名、1987年当時は5~7名(全員女性)でした。
・あと、今に伝えたい大事な点は、地域での面拡大が効果的だったということです。どうせやるなら面白くも大切。
[PR]
by issei_tachikawa | 2010-06-25 14:59 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)
・ある晩残業していたら、近所の佐竹さんが大なべにカレーを作って持ってきてくれた。炊きたての飯とカレーに地域というより近所のたすけあい、まさに砂川8丁目生協を実感!組織率超たかっ!
・ぼくは、定時職員遠藤さんの長男、シュン君のお古のGnsをはいて仕事をしていた。職場には自転車で5分、まさに職住接近。
・砂川8丁目のみなさんには本当にお世話になりました。これからできるだけの恩返しをしたいです。冷凍・冷蔵品の仕分けも本部センターの倉庫で、トラック修理は理事志村さんのご主人の勤める会社でお願いしました。連合会出向時の送別会でいただいた寄書は今でも大切にもっています。
・立川市職員労働組合(自治労)とはとても仲良しだった。児童館、学童保育所コースをいっしょにつくった。須田塾(シビル)の加藤さんがリーダーの砂川祭り今年で26回目(?)
・大沢さん(障害者の福祉作業所・いろりんの創設者、現立川市議)から紙の分別処理を教わった。いろりんのメンバーが回収してくれたガラス瓶は、山村硝子でリサイクルされていた。当時はゴミ箱に何でも捨てたり、使えなくなった保冷箱のかけらを村山団地の廃棄物BOXに捨てていた。分別やリサイクルの言葉もあまり聞かなかった。そのあと大沢さんは市議会議員に4期連続当選して今もBIG ISSUE(野宿者)支援などで協働している。
・今のリサイクルセンター建設のために市長の呼びかけで「ごみ対策市民委員会」が創られ、立川生協役員として自分が係った。センターは西砂町で稼動しているし、公的施設のトレペを市内で回収した紙でリサイクルするという企画もこの会で実現したのであった。
・1970年代に首都圏各地で設立されたわれわれの会員生協の多くは、地域から生まれたのである。
・1947年 生協法制定当時の生協の基盤も団地引揚者のネットワーク(赤羽団地)、自治会・町内会などの地域共同性にあった。
・ですから地域セカンドリーグとセカンドリーグ支援室(中間支援組織)は、生協事業・生協活動の初心(原点)に帰って地域の諸団体・諸個人と連携協働することをめざしているのではないか、或る意味NPOの走りが生協だったといえると思います。
[PR]
by issei_tachikawa | 2010-06-23 16:15 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)
1.共同購入オンリーの時代に「一人班」を超える(あわせ配送もどき)開始の理由
・1987年春、ぼくは立川生協(現在はパルシステム東京立川センター、八王子センター)の営業拡大責任者だった。東大和市桜ヶ丘団地「決戦」での体験。 「どうしても卵は10個パックで欲しい。」という要望が多かったので、「簡単便利」を売りにしていた大生協との競合に勝てるように工夫をした。卵の注文は1パック10個単位で受け、発注は5kgケース単位で行い、届いたケースからマニュアルで早朝パック詰めし追加お届け表を作成し配送者に頼んだ。パックは近くの市場で大量に購入した。請求時も手で追加入力した。牛乳(供給単位1ダース)豆腐(供給単位6丁)も同じ工夫をした。
・マイケル班は親戚、友人の承諾を得て登録組合員は3人だが、実質一人班。それでもあえて人と利用金額をみて合わせ配送コースに組み込んだ。1人班と共同購入班とを組み合わせて採算が取れるようなコース設計を試みたという点では後の「あわせ配送」システムに通じるものがあったと自負している。Fさんとの付き合いは連合会の職員同士として約20年後の今も続いている。
・「一人班」という呼称に生協特有の共同購入神話に乗っかった危うさを感じて放置できなかった。自分にとって組合員拡大(営業)の原点は、「美味しくて安全な産直品をもっと多くの人にも食べて欲しい。」というものだったから、1人だから入れないという仕組みはおかしいと感じていた。それに当時から、隣近所の地域共同的関係より個人宅配を切望する人は増えていた。いずれにしても、一人でも取れる仕組みをつくって生き残ることが差し迫った課題であった。
・職員会議では「共同購入を破壊するからやめたほうが良い。」という意見が多数で、はっきりとダメだしはしなくても、「吉村は勝手に一人班つくってしょうがないなー」と感じる職員や理事が多かったのではないかなと思いますが。いかが?ただし誰でもいいから一人でもどんどん入れちゃおうというような安易な考えはありませんでしたよ。「月にいくらくらいとってくれますか」という質問はしていましたし、マネジメントの範囲外で一人班が増えることにはぼくもヤバイと感じていました。でも共同購入の理念を押し付けるだけでは、どんなにステキな人でも、1人の人とは永遠にお別れだったのですからね。


●立川エリアでの取り組みはどちらかといえば地域限定だったのに比べて、東村山センターで丹治さん、滝さん、長谷川さんらがかかわって始めた実験は、調布・北多摩・南埼玉生協わかばの3生協協働の広域展開でした。いずれにしても地域の「事実」を踏まえて、地域からの要望(1人でもとれる生協の宅配を)未来を先取りした仕組みを根本から作り直したことが後の20年間の成功(継続)につながったことは間違いありません。
・配送委託会社というすばらしいパートナーとの出会い
・中途半端な部分的な宅配(ジョイントメイトなど)ではなく、生産・製造、注文案内、受発注、基幹物流、生活物流、仕分け、配達、そしてITのシステムの全てを根本から変えたことなどがその具体的な表現です。
●今後のパルシステムを構想するに当って教訓になることは、共同購入がまだそれなりの勢いがあったときに、もひとつの(セカンドステージ的)供給システム=個配を始めていたという事実。その個配も2009年度初めて前年割れしたのであるから、次の供給システムを構想しなくてはなりません。それはまちがいなく、地域という面で展開するセカンドステージ事業だと思います。暮らし課題解決事業を有機的につなげて、パルシステムらしい福祉事業を展開すれば、次が見えてくるはずです。
[PR]
by issei_tachikawa | 2010-06-16 15:01 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)
c0219972_12444040.jpg(小学生当時:喧嘩の記憶)
昔はスデごろといっていた。要はヤッパもはじきも使わない、素手でやるだけ武器はだめだよ。男同士の肉体と精神の勝負だからというk-1的な発想かも。
・最初の勝負の相手は、NH。小学校3年かな?休み時間I彼が女子生徒をいじめているような気がして、止めに入ったらこぶしで殴りあいになった。どっちが勝ったのか?
・小学校5年次、6年の集団と殴り合いになった。生まれてはじめて跳ね腰しをくらって廊下にたたきつけられた瞬間の激痛、今でもよっく覚えてるぜ。
・小学校6年次、休み時間のS型でイザコザ発生。F組(3組の多数派)と4人組(TM、YO
、HI、イッセー)は、放課後に校庭の土俵で戦闘開始した。相手は多数だけれども、いわば鳥羽伏見の幕府軍的な寄せ集め部隊だったので勝利は確信していた。わざと大声を発しながら人の群れのど真ん中につ込んだら予想通り向こうは逃散した。最後は差しで決着しようということになり、MSとTMの一騎打ちになったが、まっちゃンつえー!このときは心底おどろき尊敬もした。Sはボクシングクラブで練習しているという噂だったが、その片鱗さえ出せなくて敗北した。
(中学になると外でもやりだした)
・最初はコテンパンにやられた。相手は大学生。Bは瀬田(ヨタ)中卒業生で日大のアメフット現役だという噂だったがリアリー?こっちはI、H、H、イッセーの4人。また4人カー!何か運命的な数に思える。中国文化大革命の敗北、失敗・・・!相手には、薬屋の兄貴、ボクシングの6回戦ボーイYなどがいてIは一騎打ちで袋にされた。こうして砧緑地公園の島から撤収せざるおえなくなるのだが、その前に4人はヤッパを研ぎながら復讐の計画をねったこともある。今になってやらなくて良かったと思う。事の発端は、かつ上げ(100円)、子どもの喧嘩に大人が入るとは大人気ないといっても悪いのはこちらだった。
・野球の試合の帰りに相手用賀中学のバンチョウを見つけて、校舎裏に誘いこんだ。しかしテキもさるものいきなり「ヤッパもってんのか。」と聞いてきた。えっ!?「ヤッパって何ですか」とは聞けない。よくわからんが刃物のことだろうと思って、「今は持っていない。」と答えた。今とつけたのはウソはっぴゃく、こぶしとけりだけあればそんなもの必要ない。殴りだしたらもう止まらない。でも倒れないので首投げで倒して押さえつけたらセンコーが止めに入った。「相撲してるんですけど」というウソを素直に信じる先生でした。無罪放免引き分け。その後、用賀の映画館でそいつに会ったら、どーもそのせつはという感じで仲直りだった。昔の喧嘩にはこういうのが多かったようです。
・玉川中学にも遠征した。その時は、Hを先頭に、E、H、オレの4人、また4人だ!登校時の待ち伏せ。本当に今でも悪いことしたなと反省している。手を怪我して三角巾していた奴を袋叩きにした。これは卑怯だ。でも止められなかった。自分の勇気のなさを今だに恥じている。
(高校生になって)
・甲子園出場目指す野球の練習で喧嘩どころではなくなった。文化祭に来た朝鮮高校の生徒を高校の射撃部のやつらが、銃の台尻で殴り殺すという殺人事件が起きて報復(当然か?)のうわさがひろがり、帰りはまとまって帰るように指導された。関東大震災や第二次大戦中の朝鮮人差別的な対応もこのような形で行われたのかもしれないと考えると胸が痛む。あのときに命を奪われた方に合掌・・・
(大学から30代では)
・学生運動、革命運動に突っ込んだので個人の喧嘩どころの騒ぎではなくなった。あまりに生々しい経験だったので未公表。女性関係をはさんでのバトル経験も相手さんに悪いので止めときます。
(一挙に生協リングでのタタカイの振り返り)
・切れた相手はたくさんいる。TF、M(M女性)、HO(女性)、MS、HH、KK(本人には伝わってないでしょうけど)、MW、TO、KO、KI、などなど。振り返ってみますと、イッセーは本当に切れやすいI存在でした。それぞれ切れた理由は違うのですが、お互いに仕事熱心のあまりに衝突したのだといえます。やっちまってから暫くして呑んだりするとこいついいやつじゃんと思えるのです。いまの職場では感情を押し殺してみんな無理をしているのかもしれない。かえって非常に心配です。昔には戻せないでしょうが、違う意見が飛び交う賑やかな組織であり続けて欲しいと真剣に思います。イエスマンも必要ですし、ぼくもいつも切れていたわけではなくて、総務11年間は万年係長の重責をしっかり果たしてきて、年下上司と上手に付き合ってきたと自負しているのですが、やはり組織の命は忌憚のない意見のぶつけ合いだと思いますので、2020年論議においては、けんけんごうごう(かんかんがくがく?)多様な意見をぶつけ合ってセカンドステージ事業を創造して欲しいと願っています。(2011年6月14日でパルシステム退職、これからが120歳までの本番です。)。

[PR]
by issei_tachikawa | 2010-06-12 12:10 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)
1)1960年代初めまでは、東京都世田谷区岡本でも井戸水が飲めた
真夏はスイカを井戸水で冷やして食った。家の裏を流れる川(次太夫堀り)にはたくさんの魚、蛍、トンボなどの生き物がいた。前の田んぼには鷺の大群が。1963年頃のある日突然兄から、「もう井戸水のんだらだめだってさ。」と。なぜなのかは聞かなかった。それでも飲み続けたのか、すぐにやめたのか覚えていない。このころ戦後の経済高度成長による自然破壊・公害は頂点に達していた。東横線で多摩大橋を渡る際に、川の堰から風に吹き上げられて合成洗剤のあぶくが窓から入ってきて、ぼくの頬に止まった!

f0153807_9544472.jpg玉川上水に誰かがハヤを放したら増えてきた。コミカフェ・ステッチ近くではそろそろホタルが舞う。まだ間に合う!
c0219972_14515473.jpg

2)水の力 5日間の断食シットイン
1983年、学生寮の自主管理を守るために学校当局の対抗して5日間断食闘争をした。教養部正門の近くにテントを張り勇士5人で泊まりこんだ。5日間ぬるま湯と若干の塩以外は何も口にしなかった。「今どきハンストなんてはやらんよ。ポーズだけで実際は食べながらやるほうがエエ」とある数学者はいってくれたが、われわれは正直だった。若いやつらは、昼間の授業、バイトにいつもどおり出ていた。体育の授業だってさぼらなかった。水と塩だけで5日間もったということは、水の力の偉大さと信念パワー、若さの証明だろう。

f0153807_9583158.jpg玉川上水の水が涸れてしまったらどうなるのか。自然の渓谷はボロボロと崩れ落ちて崩壊する。小平市民の運動で下水を浄化し上水に流し込むことで清流を復活させた。その拠点がコミカフェ「シントン」(西武国分寺線鷹の台駅前商店街)なのです。オウナー碇山さんは「行政や大学の先生や商店街の人にも呼びかけて粘り強く学習会を継続しながら」賛同者を集めていきました。彼と会った時の思い出を大切にして僕は生きています。「シントン」詳細については『100万人の人間力2』(彩雲出版 242ページに書きました。)

3)水道水は安全か、MWはヘルシイか
「外国からマグネシウム過剰のミネラルウォーターを輸入して、ありがたそうに飲むなんていう現状はおかしい。水道水の方がマシだ。」という研究者もいる。逆に「強い塩素で殺菌消毒する過程でトリハロメタンなどの発ガン物質が形成されるので良くない。」という主張も多い。正確なところは良くわからないが、最近50年間の死亡原因でがんがトップを占めている事実の背景に飲み水の汚染があることは間違いない。

f0153807_1081122.jpg同じ玉川上水でも立川市内に入ると渓谷というより運河的風景になる。どちらが気持ちがいいでしょうか。答は明白だね。運河を渓谷に戻すことは可能か。ぼくは出来ると信じたい。ソウルのどぶ川をトンボや雑魚、水草や野草でいっぱいの自然豊な川に蘇生させた力は何か?!民衆の、政治家の、行政の、企業の、大学などの力を総結集すれば良い。あきらめない、急がない、求めよ!

4)毒にまみれながらも生き延びる強さ(免疫力)を
米炊き、味噌汁、麺類などには、パルシステム東京で買った浄水器でろ過した水か店舗生協の純水を使う。ポット式の浄水器と木炭も併用している。コストが安いのが魅力だが、本当のところ完璧に安全な水などはないものねだり。毒にまみれながらも生き延びる強さ(免疫力)を養うしかないだろう。

5)あるときの直感(50歳前後の記憶)
「生命がいない液体」(ジュース・お茶類)よりも、生に近い水をもっと飲むほうがヘルシイではないかと思ってミネラルウォーターをもちあるくようになった。何人かの先人の意見も伺ってから、食前1時間前くらいにコップ1杯くらいの水を呑むようになった。山梨県白州町からの水(紙パック)をパルシステム東京で共同購入して飲むようになってから、風邪も引かなくなってきた。今のところは結果がいいので続けている。
人間の体の60~70%は水分で、40%が細胞液、5%が血漿液、他は組織液(?)。1日に失う量は個人差運動量などで違うが、約2~2.5㍑2%失うとのどがからからになったり、10%のロスで生命危険、20%以上は死に至る。でも、水さえ飲んでいれば、断食してもしばらくは生きていられる。
都会でも美味しい井戸水と星がみえる青い空を取り戻そう。食・農をテーマにする社会的連携・地域協働の取り組みをすすめよう。これからつくる「ケアハウスネット」ワークの売りの一つはおいしい水・きれいな空気・青い空になるだろう。

f0153807_10221294.jpgその気になって地域連携協働してやればできるの事例。渋谷区、某商社、NPOが連携協働して笹塚(京王線)の玉川上水自然風景を復活させました。話違いますが、都心のビル屋上で貸し農園ができてるそうですね。多様な生き物が共生できる環境をととのえることは、私たちの子や孫に対する責任だと思います。
[PR]
by issei_tachikawa | 2010-06-09 11:22 | 脱原発・自然エネルギー産業の拡大 | Comments(0)
c0219972_19384162.jpg甲田先生は少食断食健康法を徹底され、2008年8月に85歳で昇天されました。1日1食、夜8:00頃に食べる以外は、生野菜ジュース&生水のみの半世紀でした。20代前半で余命何ヶ月とか宣告されてもへこたれないで生活改善に取り組み、西勝造さんを通じて民間療法、6大法則などを学び実践しながら、大阪八尾市で病院経営をされてきました。
  昨年9月の追悼式、息子さん(医者)が実行委員長でした。そうだ、工房あかねの前島さんも甲田さんの指導で肝臓直したといっていた。ぼくの親父は30代前半で胃潰瘍、神経症、仕事の失敗でやばい状況になり、西勝造の道場に通っていた。縁って不思議だね。ぼくも20代から40代に、呑みすぎ食い過ぎ人間関係ストレスや政治的悩みで心身がボロボロになったこともあり、時々は彼の考え方に共鳴し、断食やミニ断食で身体の声をききながら医者に頼らないで自然治癒する方法を体得してきました。
  ベジタリアンの生活が基本でしたが、細かく観察してみるといくつかのターニングポイントがあり、2008年5月5日の長岡式酵素玄米食事開始、体重の減少(40年間で10kg、とくに最近5年間で62kg⇒56kg、6kgも減少)、反面ではこの10年間風邪、腹痛、腰痛、肩こりなど無縁の健康生活なので、ちょっとここらへんで、ためしに食いたいと思うものを感謝しながらいただいてみました。藤田紘一郎さん(東京医科歯科大名誉教授)の研究では、「60過ぎたら少しは肉を食べるほうが良い。血液型Aの人は、豚肉、うなぎが相性が良い。」との意見も参考にしました。でもやはりベジタリアンの基本は外さないほうが調子が良いようです。
  1頭の肉牛を育てるために必要なとうもろこしで、30人以上は食えるのではないかということや、ケージ飼いで運動不足・抗生物質づけの鶏さんたちをどうみるのかとか、野球ドーム10杯くらいのごみの山とか、BSEとすべきなのに相変わらずマッド・カウ・ディジーズを平気で使っているジャパン・タイムスの記事などを読んでいますと、たくさんのやるべきことがあると思いますね。あきらめない、あわてない、すこしずつ、楽しみながら続けましょう。

★★★ 息子さんの追悼文です。
「                       寄稿

                     「父の死に様から学ぶもの」

近畿大学・医学部・准教授
甲田勝康

「大自然のように死んでいきたい」、それが父の願いでした。私が、父の学問の中で尊敬しているのは「平等の精神」を医療に持ち込んでいることです。父の提唱する「少食健康法」の根底には「平等の精神」があります。
人は食物連鎖の頂点に立ち、すべての食物に生命があることを忘れてしまっています。食べ物が生き物であることと、それを戴く感謝の気持ちを忘れて、グルメを貪っています。しかし、牛も鶏も米も野菜も全ての食物は生き物です。「少食健康法」の根底には、全ての食物に感謝し、全ての命を無駄にしないで戴くという「平等の精神」があります。
現在、世界の食糧生産量に限界が見えてきました。そんな中、経済的に余裕のある国では様々な食糧があふれ、過食や肥満による疾病が増加しています。WHOの推計によると約8億人がこれに当たります。逆に、FAOの推計では7億5千万人が社会経済的理由で飢餓に苦しんでいます。何と不平等な事でしょう。父はこの解決策として「少食の思想」を提唱してきました。
幼少期から大食であった父は大病を繰り返し、学生時代には入院している大学病院の主治医から「こんなところに入院していても無駄だから早く家に帰って養生しなさい」と見放されました。そんな中、民間療法の断食と出会い、50年も寿命を延ばすことが出来ました。この断食や少食を実践し続けていく中で食物に対する「愛と慈悲」つまり「平等の精神」に到達したわけです。
先進国では、医療費が国家財政を圧迫しています。高度先進医療が進むと医療費の負担が増えるからです。一方で、多くの発展途上国では、満足な医療を受ける事が出来ない人がたくさんいます。なんと「不平等な医療」でしょうか。父は「自然医療」を推進しようと尽力してきました。「自然医療」にかかる費用は僅かです。多くの人が受ける事の出来る医療です。そんな信念から、父は現代の常識的に行われているような検査や治療を全く受ける事無しに死んで行きました。まさに大自然のように死んでいったのです。死を迎える直前、父はご縁のあった皆様に感謝しておりました。父にかわって御礼申し上げます。                                                             平成20年9月19日」   合掌・・・
 
[PR]
by issei_tachikawa | 2010-06-08 14:25 | 気・血・道、医・食・農 | Comments(0)