どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

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c0219972_1444813.jpg・98歳の映画監督、「さいご」の映画(一枚のはがき)作り風景が紹介された。NHK3チャンで10:00~11:30まで。お孫さんの新藤風さんが健康管理・介助などのサポートをされたということ。
・テーマは戦争。それも「二等兵から見た戦争反対映画」だというのが面白い。テーマに反して戦闘画面はまったく出さない。ここに監督の罪の自覚、死者との対話、私たちへの伝言が表現されている。
・つまり、戦争とは家庭を崩壊させる犯罪だということ。新藤監督は土壇場で赤紙を受け取り、同期入隊者は100名、そのうち60名がフィリピンに派兵され戦死、30名は潜水艦で戦死、残った10名は宝塚で勤務になるがやがて4名が戦地に派遣され戦死したので、生き残ったのは6名になる。そのうちの1人が新藤さんで、今では生き残った他の人も全員なくなったので生存者は彼だけである。
・映画の中で新藤の化身たる啓介は、戦死した農民兵定造(当時40才)の妻(友子)から「何であんたは生きとるの!どうして死ななかったの?!」と追求され、くじを引かなかった自分を悔やみ続ける。人の生き死にの岐路(運命)が上官の引くくじで決まっていたのか?!この事実にはオレでも唖然とする。なにがお国のためか、戦争に「国防という正義」の理屈をつけて方向指示をする偉い人たちには、戦争の本当の恐ろしさがわからない。家で夫の死を知らされる妻、家族の一人が倒れると不幸の連鎖で家庭が崩壊していく。
・今また尖閣列島付近で中国と日本のトラブルが発生している。国土防衛が叫ばれる。憲法違反の自衛隊が堂々と外国に出て行く。このままでよいはずが無い。ぼくは1960年代の初めから戦争について考え始め、ベトナム、湾岸、アフガン、イラクとできる限り戦争反対⇒非戦争の意思をデモや文章で表明してきている。
・ベトナム戦争時のアメリカ国防長官 マクナマラ氏はベトナム戦争の歴史的な間違いについて著書で認めている。今またアフガン、イラクで本質的には同じ間違いが繰り返されている。沖縄は相変わらず米兵の思うがままの無法地帯である。比べてエクアドルはどうか?
コレア大統領の下で議会、マスコミ、識者、経済界、市民のすべてがひとつになって米軍基地を撤去させた。日本の防衛とはなにか。何から何を守るのか。戦争は実は経済的な利害実現の別の手段なのではないか?だとすれは兵隊を戦地に送り出して大もうけしている人々、営利企業が存在するのだ。新藤監督はもうすぐ100歳だ。映画制作はこれで終わりにしても、天寿を全うされることを祈ります。そして彼の問題提起に対して真正面から見つめて生きたいと思います。
(注)友子役は、大竹しのぶさん、僧侶で麿赤児(元状況劇場の役者)が出ます。友子の母役は、賠償美津子。
「今日は祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、まったく風情がありません。」(1枚の手紙)
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by issei_tachikawa | 2010-09-20 11:12 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)
c0219972_1455321.jpg・最初にであったのは何処か?おそらく自主管理研究会事務局 T君の仲立ちか? どこかの小学校で夜警のバイトをしていた彼を訪ねて議論したり、夜のプールで泳いだりした。
・1970年代後半から1980年代前半、ポーランド連帯、ワレサ達の活動がソビエト型の官僚的一党独裁非効率の計画経済を運動と理論で批判した。世界的な倒産・自主生産・自主管理の波が資本主義各国を襲った。このころボクは社会党理論政策委員会『自主管理』に「自主管理社会主義に未来はあるのか」を寄稿し、田中機械、大阪亜鉛、細川鉄工など大阪港地区の全国金属系労働組合の再建支援、大学院では「モンドラゴン協同組合連合」を研究していたが孤立無援状態、ゼミの指導教官前川嘉一さんから「タケモトの二の舞になる気か」とくぎをさされていた。森野くんからは「たくさんの人に理解されなくてもいいが、ゼロでは困る。たった一人でも理解者がいれば大丈夫」と励まされた。心のこもった一言、幾百万の味方を得た気がした。
・森野くんは情報革命に関して先見の明があった。例えば世間はワープロもこれからの時代に、パソコンを駆使(1980年代前半)していた。因みに、1990年総評会館にいた頃のジギョウレン(現:パルシステム生活協同組合連合会)は富士通オアシス(ワープロ)だった。翌年にNECノートパソコン導入したが、直ぐにウィンドウズ(富士通のシステム)に転換した。
・語学については、英独仏ハングル中国語(北京語?)もあやつる。昔、ラルースのフランス語大辞典翻訳の仕事をもってきてくれた。大辞典は白水社から出版されている。すべて独学というのが彼らしい。つねに自立心旺盛で、難しい言語を1つ1つ解析していくのである。まさに道なき道を、というか道を自分で造ってしまう人。しかし天才肌ではなく努力家だと思う。いや神がかっている部分もあって微妙ですが。
・まさに日本のプルードン&ゲゼル(愛妻家、職人ものづくり革命家)といっても喜ばない人:とことん日本にこだわる人でもある。
・S.ゲゼルを研究し、ケインズがゲゼルを高く評価している事実を発見した。減価する貨幣に本来の通貨機能を求め、地域通貨を提案し、千葉のピーナッツなどに実現されている。『かがり火』(132号)にも特集されている。本人は決して満足していないようだが、ぼくには世の地域通貨評価尺度について実に鋭い指摘をしているように読めるのだが。読者諸氏はいかが?
・NHKからの依頼で、M.エンデ「モモ」をプロヂュースし『エンデの遺言』(NHK出版)として刊行されている。
・二ノ宮尊徳について話し出すと止まらなくなる。石塚さん、山本伸司さんとのやりとりが楽しみだ。森野君は日本人では先進的な研究をしていると思うのだが、ぼくは農学について不案内なので、彼の研究の中身についていくら聞いてもその意義や価値などをわかりやすく人に説明することができない。その点では、農本主義、権藤成郷、梅なんとか、日中韓で国学の学会についても同じだ。まだまだ勉強しなくてはいけないな。
・かれは今年61歳、まだまだこれから、とことんパーフェクトを求めている?辛口、毒舌、パルシステム、生協、左翼批判にじっと聞き入る、でも友達は友達「あと50年」人生をいっしょに楽しみたいものだ。
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by issei_tachikawa | 2010-09-19 20:10 | 気になる友達シリーズ | Comments(0)
c0219972_14104694.jpg・先日「茶遊」で若葉町の語り部から聞いたお話です。
韓国のある山に大きな虎が住んでいました。しばらく獲物に会えない日が続いたので、おなかを空かせた虎はある晩、村に下りてきました。家の中から赤ちゃんの泣き声とお母さんらしい女性の声が聞こえます。
「いいかげんで泣き止みなさい!言うこと聞かないと熊がやってきて食べられてしまいますよ。」と言われても赤ちゃんは泣き止みません。虎はその様子を納屋で隠れて見ていました。
なき続ける赤ちゃんに困ってしまって女性はこういいました。
「いいかげんで泣き止みなさい!言うこと聞かないと狼が来ますよ。」と。それでも赤ちゃんは泣き止みません。その様子を見ながら虎は自分でもどうしたもんか考えていました。
本当に困ってしまって女性はこういいました。
「いいかげんで泣き止みなさい!言うこと聞かないとこんどは虎が来ますよ。」と。それでも赤ちゃんは泣き止みません。虎は少し自尊心を傷つけられた気がしました。
それからです、女性が何か持ってきてこういいながら赤ちゃんに見せながらこういいました。
「干し柿ですよ。」赤ちゃんの泣き声が止みました。
虎はビックリしました。「熊、狼、そしてこのオレ様でも怖がらない赤ん坊が黙るとは。干し柿ってやつはどんなに怖いやつなんだろう。」と思っていますと・・・
ドサ!と天井から何か落ちてきて虎の体にしがみついたので、虎はビックリ仰天表に走り出しました。それこそ恐ろしい干し柿に違いないと思い込んだ虎は猛烈なスピードで走り続けました。
天井から落ちてきたのは牛泥棒、暗闇の納屋で虎を牛と勘違いしたのです。牛泥棒は目の前に見えてきた木の枝にしがみついて難を逃れ、虎は虎で「干し柿」を振り落とせたと思ってホット一息つきました。めでたしめでたし。(お後がよろしいようで。韓国民話シリーズはあと2回書きます)
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by issei_tachikawa | 2010-09-17 15:07 | 韓国、人民民主主義共和国、中国、アジア | Comments(0)
c0219972_10253878.jpg(韓国の民話です。ハングル絵本があります。)
むかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。裏山の峠は「さんねん峠」と呼ばれていました。理由は、そこで転ぶと3年しか生きられないというもの。
ある日おじいさんは薪拾いの帰り道、用心深く歩いていたのですが石につまずいて転んでしまったのでおおさわぎ。家に帰っておばあさんに聞いてもらっても解決策はみつかりません。さんねん峠で転んでしまったのですから。日がたつうちにおじいさんは調子が悪くなって寝込んでしまい、回復しません。
困ったおばあさんが水車小屋にいって番人の少年に悩みをうちあけますと、少年はおじいさんの枕もとに来て、こう説明してくれました。
「悲観すること無いですよ。1回転ぶと3年でしょ、だったら2回で6年、3回で9年、100回転んだら300年ですから。」
これを聞いておじいさんはさっそく山に行って、峠で転びました。とても気分がすっきりさわやかになりました。森の方から歌が聞こえてきました。「さんねん峠で転んだら、1回3年、2回で6年、100回転べば300年!」と元気な歌に励まされて、おじいさんはころころころころ峠を転がりながら帰ってきて、それからは今まで以上に見違えるように元気になりました、とさ。
(注)歌をうたっていたのは、あの水車小屋の少年でした。
良い本を読み聞かせて伝える、小さなことの積み重ねで人の気持ちが変化し、世の中は変わっていきます。ビリーブ アワ フューチャー(in ハングル? in スパニッシュ in アイマラ、 トライ アゲイン)
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by issei_tachikawa | 2010-09-15 10:16 | 韓国、人民民主主義共和国、中国、アジア | Comments(0)
c0219972_927475.jpg梨の礫=なしのつぶて(コメチのおやじがオレに出した宿題、模範回答:つぶては小石のこと、石つぶてなどともいう。小石をぶつけても見てみぬ振りをする、目をつぶる又は閉じて知らん顔する。梨は無しの意味。連絡が言ったきりで返事が無いということ)
得体の知れないやつ(おれが対抗的におやじに出した問題、語源は衣体、昔は袈裟の色形で宗派がわかった。鎌倉時代から?浪人坊主が増えてきて「あいつはどこの寺の坊主なのか、袈裟が無いのでわからない」となったとか。ほんまかいな?)
切羽詰る(のこぎりの刃にきくずが詰まって押しても引いても動かないようないかんともしがたい状況)
胡散臭いやつ(マヤの橋本くんのトークネタ)
語源、意味、わかるかな?

英訳したらこうなった。
Gravel of pear
Guy who doesn't know true character
It is at a pinch.
Steller's sea lion scatter smell guy
Etymologically, do it mean, and do it understand?

やっぱ日本語の方が納得できるよな。日本文化=世界では辺境文化だそうで、吉本隆明『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『擬制の終焉』などは外国語訳皆無、司馬リョウだって外国語になってるのは2点(1つは最後の将軍、2つは?)でも、辺境にいきる俺たちだってインターネット(じつはナショナルが90%)にさんかできる時代なのだから、胸張って辺境人として生き抜こうではありませんか。
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by issei_tachikawa | 2010-09-11 20:49 | 面白い言語学 | Comments(0)
c0219972_9285853.jpg久しぶりの茶遊(柏町の吉沢さんご夫妻の経営するコミカフェ)イベント。語り部は、若葉町のの笹田恵子さん。肌がつやつやでしみしわがひとつも無いことに驚いた。生き方が良い。語りが新陳代謝を高めてくれるのだと思う。笑顔がトシマサ(小澤)さんに似ているなーなどと考えながら聞いていました。
最初からプレッシャーがかかりました。笹田さんから聴衆に注文が2つ。「頭んなかを空っぽにして聞いてください。」「みなさんの目を見て話しますので目をそらさないで」というもの。照れくさいけど少しの辛抱だ。
出し物は4つでした。
・トラと干し柿
・ねぎをうえた人
・婿さんの買い物 日本の歌「お月様」小道具つきでした。以上はお話
・絵本の読み聞かせ『さんねん峠』
みんな良かったね。宮沢賢治『注文の多い料理店』前書きみたいなお話でした。わずか30分の間に1000年もの時間が流れていったような気がしました。今日集まった人たちの目がやさしい。こういう人ばっかりだったら絶対に戦争なんて起こさない。3:10から成城大学で日本公益学会シンポジウムがあり志波さんがコーディネーター、唐笠専務が話すので急ぐ途中の立川駅北口で「九条の会」のみなさんがチラシを撒いて演説していた。今日も暑かったね。またビール飲んじまったぜ。「公約違反」だな。カンニン
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by issei_tachikawa | 2010-09-11 20:40 | 韓国、人民民主主義共和国、中国、アジア | Comments(0)
・「7人の侍」時代から「タッピ軍団」(軍なんてごめんね、暴力嫌いな方にお詫び)時代へ。1986年4月に登録組合員数450名、供給高9600万円なのに、負債約4000万円(正確な数値ではない)抱えていた生協が、2年間で負債を返し、2500名(登録組合員)5億円以上の生協になった。信じられない成長ですね。その理由はすでにいろいろな人がいくつかの文書でコメントしているので詳細について触れはじめると長くなるし、公式文書になってしまってブログ的面白さが減るのでここでは人とエピソードに焦点を当てて思い出にしましょう。それとあまりになまなましい話は割愛します。それは別途イッセーの脳内日記帳にバグッってますから酒に誘ってくれたらいくらでも、3日間徹夜でも話しきれないくらいありまっせ。
・タッピは立川飛行機(株式会社立飛企業、モノレールの駅ができるくらいでかい敷地)のこと。かってはここで紫電(ゼロ戦と並ぶ帝国空軍の戦闘機)を造っていたので、太平洋戦争末期にはB29の集中攻撃の対象になった。今は貸し倉庫を経営、スーパー稲毛屋も入っている。その倉庫のひとつに砂川8丁目の本部を引っ越した。いくらかかったのだろう?今の連合会だと数千万円の費用増加を覚悟しなくてはならないが当時はどうだったろうか?専務、後で教えてくれ。
・いずれにしてもここで営業し始めてからはぼちぼち人が来るようになった。だからいろんな意味でフツーに近づいて生活は楽になってきた反面では、仕事がマニュアル化され人間関係も貧困の平等愛と憎悪の共同体からスマートな近代的(ぷす!)非営利協働組織になっていった。といっても一挙にではなく、・・・・年ジョイコープ合併⇒東京マイコープ⇒パルシステム東京という実に30年近くの事業と活動経験の中でそういう道を選んでいったのだと思う。今考えると毎晩のようにやる気ある組合員からファミレスに呼び出されて「なんで大きくするの、産直ができなくなるし、意見が通らなくなるからあまり増やさない方がいい。」と突っ込まれて議論していた風景が懐かしい。
・そのころのトラックは確か13~15台、配送担当は、地域とか地区担当といっていた。ドライバーって呼び方は配送委託がはじまってからだね。タッピ軍団の名前は書きません。個人情報だから。でも7人の侍については書いてしまった。これもおかしいか?でも今更消す気にもなれないし、誰からもクレーム付いてないからまっいいか。というわけで実名は控えますが、代わりにアルファベ表記しておくのでそれぞれで自分が忘れられていないか確認して置くように、なんてえらそうに言えるのはおれはこのとき常務理事、つまり経営者で業務、採用、人事教育、システム、福利厚生、そのたのもめごと処理を担当していたから。
・やめてった人から書いておこうか。第一番はM、O、K。新卒採用第1号、MとOについては、ある高校社会課教師をやってたダチに頼んだのです。態度がでかかったのはM、「採用の時になんだ倉庫につとめるのかよと失望した。」などと抜かしていた。何しろ我が強い人で喜怒哀楽表現、仕事への意見含めて言葉は明白だったが遅刻・無断欠勤が多くて困った。ある時期はHと交代で無断欠勤するので、1ヶ月あまりオレは配達ファイルも無い時代にゼンリン地図だけもって毎日配達したことがある。
・こいつが国立の坂道に停車したはずの車のサイドブレーキが甘くてバックしてしまい当たりやのえじきになった。カフェに呼び出されて10万くれても欲しくないようなぼろ車の修理代と称して何百万円かふっかけられた。宮崎さんとオレが対応したが稲川興業を名乗っていた2人組みの携帯電話のやり取りや風体でプロの暴力団員ではなくてチンピラだと判断して、びた一文払わない方針で撃退成功。ああいえばこういう、丁々発止でやり合う。中学のワル業界等の経験が役立った。Mは遠くのSCに疎開させて難をまぬがれた。
・M一人でもこのくらいの字数を費やしても語りきれない。それにこれだけではMに済まない。いいとこもたくさんあったし、たくさんの貢献だってあった。できればやめないで生きていて欲しかった。〔合掌〕14人は団子になって急成長を支えてくれた。心の奥底から勇士たちにありがとうです。というわけで今日は、イニシャル紹介だけであとは気の向くままに書きます。
現役でがんばってる人たち⇒HT、YN、HH、TM、HF、UM、KN、
退職して別個に歩んでいる人たち⇒HT、M、O、K、M、S、MT
このほかにSちゃん、Aくん、Tちゃん、オノマン高校生仕分けグループ
拡大パート6名、事務パート4人組
理事さんたち
BIGな(問い)やめてった7人は成功してるかな?ときいてもフォローしようがないのであきらめるとして、今もいっしょにパルやってる7人にとって立川生協って何だったんだろうか?みなさんの分岐点はどこだったの?(BIG ISSUEで毎号冒頭で特集してますよね、あんなふうにみんなのおれの分岐点を集めて後輩に世間に知らしめるってのも面白いかもね。誰か企画してくんねーかな。
・地場産直でお付き合いしていただいた農家、養鶏場、畜産関係もふれないとな、難しいぞこれは。というわけで今日のブログはシューベルトのセレナーデでした。
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by issei_tachikawa | 2010-09-08 16:20 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)

早朝牛乳物語

c0219972_12163421.jpg・1986年4月~12月頃の話、一部1987~89年にひっかる話もあり。
・当時の牛乳は、たしか85度殺菌だった、よな。パックはミザラシ(無漂白なので茶色っぽい)横長長方形で封切った直後の1っパイ目、牛乳がこぼれやすい。ぴゅーっと前に吹きこぼれるのだ。ふたをサービスでつけることで何とか一時のクレームは対応できた。
・1986年(87年か?)秋に今の72度15秒殺菌になったのか、75度⇒72度という進化の過程をたどったのか良く覚えていない。こういうことは商務担当でないぼくは苦手です。
営業中に競合するのはビン牛乳(生活クラブ)、62度の30分低温殺菌牛乳、ロングライフミルク(超高温、数秒で殺菌)=LL牛乳。LLは「デットミルク」などといって批判しやすかった。決め付け的な要素もあるので問題ありだが。「たんぱく質の熱変性が健康に良くない」という理屈も使った。ビンについては、「そうですねビンの方がおいしいですね。リユースすれば環境にもいいし。」といって、醤油、ソース、マヨネーズなどビンへのこだわりについて共感を求めた。しかしこれはやや苦しい営業トークだったと思う。「びんでは配達するのに重すぎる」というのもパックを選ぶ理由だったと思う。これも商務でなかったぼくは産地に行っていないのであまり責任のもてる発言ではない。
・昨日の朝出勤途中で・・・・牛乳の宅配バイクの荷台にむき出しで積まれた牛乳を見ながら1986年のこんせん牛乳配達風景を思い出した。午前2時に生協の冷凍庫を開けて積み込み。大きな保冷ケースに大きな蓄冷剤を入れて運ぶ。立川北部、武蔵村山、東大和、昭島、日野、八王子までいって帰るのが7:30くらい。
・多摩川の土手で用を足したことも。時間が無いので失礼。朝飯は伊奈平の立ち食いそばで。
戻ったら直ぐに昼間の配達積み込み作業に。睡眠時間4時間くらいかな。真っ暗闇の組合員宅の庭でトラックが穴に落ちたことも。ごみ捨てようにほったという。何も連絡なし。これでは落ちてもしょうがない。泣きながら怒鳴りながら生協まで走って別のトラックに積み替えて難をまぬがれた。大笑いかも。海老名見学ツアーのバスが、そのお宅の前を通りすぎる際にバックロしてあげたが、みなさんおぼえていないよな。いまの人間関係では考えられないことだろうね。個人情報バクロで糾弾されるだろう。だから沈黙してストレス預金が増える。
・72度殺菌が出る前の数ヶ月間に、市中をアナウンスして回った、トラックにスピーカーつけて。これも今ではご法度行為になる。まるで365日選挙戦の雰囲気。違法行為なのに誰も止めてくれない。いや、仮にとめてもとまらなかっただろう。それくらい新発売のこんせん牛乳には思い入れが強くあった。これで戸別訪問し飲んでいただきながら1人1人獲得していたのですから。
・じつは僕は長らく牛乳をのまなかった。(新谷弘実説)でも最近は1日コップ1杯位は3時から5時くらいの間にいただいています。ぱっぱりこんせん君はうまい!子供やネコはこの味をよくおぼえている。たまに市販の牛乳をやると顔をそむけることも。
・早朝牛乳を配達しながらいろんなことを考えた。いつまでこんなこと続けるのかなー、とも考えた。交差点で信号待ちのときに睡魔におそわれて寝てしまって甲州街道を渋滞させたことも。でもやめないでよかったな。空に浮かんだ三日月、junkoの笑顔、多摩川日野橋から見る朝焼けのモザイク、忘れらんないぜ。みんなありがとう!
◎こんせん牛乳の産地には毎年タオルを送ります。牛の乳を搾って拭くときに役立つそうです。30年近く職員やっていてまだこんせん牛乳の故郷にいったことが無い。いつか機会をつくって行きたいものです。
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by issei_tachikawa | 2010-09-07 06:35 | パルシステムで愛と協働の地域社会を | Comments(0)
c0219972_919717.jpg・JR中央線の南口降りて大学通りを歩くと障害者スポーツセンターが見えてくる。そこを右折してさらに100m位歩くと右側に「遊」がある。目の前が国立○○会館という絶好の立地条件、生徒は30人くらい。小物ショップも経営している。
・学校法人の認可はとっていない、だろ?でもここを選ぶ親子がいる。和知さんが東大やめて何人かの元教師など友人と一緒に立ち上げてから今年で〇年になる。シュタイナー教育の理念をベースにして、生徒の個性、自然の一部としての人間共育、愛と協働を訓練する場を育てている。
・順子は茶道の先生をしていて、おれは時々イベントに参加する程度だが、今思えば20年くらい前に開校の打ち合わせ会議にも参加していたような気がする。
・運動会、文化祭、他の発表会などみんな楽しみなイベント。少人数だけにつながりがとても濃い。1こま1こまの印象も強烈。
・特に印象深いのは、アカネちゃんの自主成人式。調布の南口にある大ホールでやった。すべて本人がプロヂュースし、プレーヤー、コーディネーターにも加わって、100名くらいのイベントになった。専門学校の友達も巻き込んでのファッションショー、渋谷の路上からそのまま移動してきたようなラップのライブ、数時間踊りまくった。おれもステージに上がりたくなったが、恥ずかしがってしまった。やっぱり40歳以上のパワーの違いを感じてしり込みする。でもフロアで踊ってるだけでも十分楽しかったよ。
●パルの企画の方では、新潟の笹神村での田んぼ泥んこ運動会が強烈だった。子供3人全員連れて参加、はやのつかみ取り、盆踊りも盛り上がった。ワイナマユ(フォルクローレバンド)でオレも演奏させてもらった。ののか(今、立女の2年生)はチイ様になついてしまって、帰りたくなさそうだった。興奮しすぎたのか持ち物全部を現地に忘れてきたので、あとから宅急便をお願いすることに。
・いずれにしても、大地に触れて自然たちと融合、渾然一体となる体験をできるだけ早めにさせることが大切。親(特に母)と子供だけの小宇宙でのコミニケーションでは限界がある。これは、昨日、立川女子高校の父兄懇親会に出席して感じたことでもある。担任の先生も出席されていた2年4組のお母さん4名も大変教育熱心で「なんとかしなくては」という熱意をひしひしと感じましたが、いかんせん1対1的な教育は指導になってしまって、子供を反発させる逆効果も心配です。人間だけではだめだと思う。田んぼ、畑が身近にあって、ネコ犬牛豚鶏なんかがいっしょに暮らしていて、ゆっくりと時間が流れていくような環境を少しでも提供したい。子供たちのためだけではない、大人も子供も、男も女も、障ガイのある人も、外国人も、老若男女チャンプルーな共育=生活環境をつくろう。
・自主学校「遊」は少しずつ確実に理想に向かって歩んでいく。

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by issei_tachikawa | 2010-09-05 16:06 | 共育、子育ち、おやじの背中 | Comments(0)

懲戒退学か自主退学か

c0219972_9215646.jpg・これは3年前、某都立高校で実際にあったことです。
・Sは中途で編入したので同級生より1歳上、身体も184センチとでかい。一緒に歩いているとその迫力にオレでもしり込みしそうなくらい。うそがつけないやつ。小さい頃からケガ・事故が絶えない。学校、教師の言うことを聞かない。教科書を持っていかない。授業に出ない。でも友達は多い。
・特にHちゃんとは小学校から今まで付き合っていて仲が良い。Kは家庭内暴力に対する抵抗が支えのひとつになって、ボクシングに挑戦している。今のところ〇戦全勝の勢い。そのほかの友達も多くは都立高校退学組、不思議な共通項。
・Sだけが自主退学である。本人は「オレはやめるって言ってない。」という。実にさらっとしている。事態をやむ終えないものとして受け入れながら、でも事実は事実としてしっかり押さえて曲げない。おれの判断ミスだったという実感が強くなってくる。今更反省でもないが、本当に心から申し訳ないと思っています。ジローさんにSをやめさせたことを伝えたら、「それはないよ!」といわれたことを思い出す。彼の感受性、状況認識、正義感、学校当局(担任、学年指導主任、校長)との関係・状況認識はまちがっていなかった。
・事実経過詳細は以下の通り。
3年前の夏、廊下で3人(S、K、1年上の先輩、全員男性)の生徒がもつれていた。聞けばSがKに暴力をふるったとかで、自宅謹慎になった。約1ヶ月の間、日記をつけさせる。夜に担任Iから電話がはいる。本人はほとんどいないことが多い。事実をいうと減点なので適当な作り話ですり抜ける。本人は毎晩のように、どこかで青春していた。日記はできの悪い小説、というより作り話の方が多くなる。でも何とかごまかして、復学になった。このときの焼肉パーテイ盛り上がりはサイコーだったな。
・ところが、直ぐに次のトラブルが発生し、Sはクラスのイスを持ち出して、男性トイレ(大)をなぐりつけてM字型にへこませた。職場に担任のIから呼び出し電話、その日の夜、あわててかけつけて現場検証、再び自宅謹慎寸前の厳重注意となり、それから何度か学校に呼ばれて先生方と話し合った。Sの主張は明確だった。
「オレは自宅謹慎については何も悪いことはしていない。喧嘩になるのを止めに入っただけだ。3人で話させてほしい。そうすればわかる。」
「(トイレの兼)掃除を最後までやろうとしたのに、途中で無理やりやめさせられたので腹が立った。」
「おれはやめるといっていない。」以上
・学校側は、途中でY副校長のを表に出してきた。この人は人物だった。最終的に全てがパーになった日に3人で話し合った。彼女もできてラブラブだったSがどうしても止めざるをえなくなるまさにその日、オレとYさんは気を使ってSを残して廊下で立ち話をして戻ったとき、おれは生まれて初めてSが涙ぐんでいるのを見た!
・それから学校当局との話が続く。何度も通った。時には2人で、時には1人で。おれはこのままではいけないと判断して、聞いた。「ようするにこちらから止めますといって欲しいのですね。」と。そのときの3人(担任、指導主任、副校長)の笑顔は忘れない。あのほっとした表情、これからのSの人生なんて二の次、というより眼中に無いように見えた。そうは思いたくないが、これがやつらの本音だったのか。だとすれば無念だ。
・話がこじれるきっかけの発生した日の夜に学校で話し合っている時、Sは突然足で机を蹴り上げていった。「おめーらは自分のことしか考えてねえだろ。俺らのことなんかこれっぽっちもかんがえてねえ。自分さえよければいいんだろが!」と。誰も何もいわなかった。流れる沈黙の空気、オレだけが気をつかって「まあここは私に任せていただいて・・・」といって収めた。
・最終的に、懲戒退学される前に「自主退学」させた理由は、Sの授業出席率が超悪かったこと、本人は卒業する気はあるというものの必死に取り戻そうという態度がみえなかったこと、このままではさらなる暴力の発生もありうることなどであった。
・考えに考え悩んだ結果の判断のつもりだったが、親として半端な介入だったと反省している。自主退学と懲戒退学に関する自分自身の調べも不足していたし、弁護士やジローさんに相談するという手もあったのだ。Sに済まないと思う。
・Sが自分で事業を起こすことを期待している。一時は巨人の星のような未来を考えたこともアルひたむきな性格、裏目に出ての器物破損、燃え上がる青春のエネルギー、違う方向で燃焼させてくれることを期待しています。
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by issei_tachikawa | 2010-09-05 01:33 | 共育、子育ち、おやじの背中 | Comments(0)