どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

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先週の「さんきゅうカフェ」報告してませんでしたね。過去にとらわれすぎか?売り上げは今まで最高でしたよ。2万円に迫る勢い?でも、中身はジャム仕入代金(13個分)と長岡式酵素玄米が爆発的にうれたからですね。早川さん6個もかってくださり感謝深謝です。社会福祉協議会、ワーカーズコープ、2つの児童館(富士見、西立川)、さんきゅうハウス連携・協働の「子供の貧困」対策会議も奥の食堂で始まりました。急がないでじっくりと「事実」調査からはじめていきます。次回の会議は、2/19(木)9:30西立川児童館です。そうだ明日は「イッセー通信2月号」配布日だ。山田さんちにもオクロー。ついでに成田さんから衣類寄付をいただかなくては。毎日が日曜日、毎日が労働日、そうだナルさんに「写真集」ももっていこう。郵送代高いからなー。三鷹くらいならチャリだぜ。まさに貧乏が健康を支えていますね。
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by issei_tachikawa | 2015-01-31 23:12 | さんきゅうハウス活動 | Comments(0)
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安保闘争は敗北としか言いようが無かった。(1970年6月自動延長)周りは就職していくがおれは自宅待機していると、ダイアモンド社に入社していた大学の先輩から「少しうちにわらじを脱がないか?」と誘われた。この人、元は法政大学応援団長、彼のアニキは長野県の部落解放同盟幹部だった。
その気になって入ってみたが半年しか続かなかった。仕事は「就職ガイドブック」(2000社から求人広告とって1社100万円、売上20億円)の営業、ホンダ、日本航空、銀行などの人事部長相手にえらそうなこといっていたような記憶がある。まさに無知なるがゆえの強気というか、人手がちょー不足だったので、こちらに有利だったのだろう。
おれの頭はつんつるてん、クロにシルバーのストライプシャツを着て営業していた。よくまー仕事取れたものだと今になって思う。
幡ヶ谷二の二の二のアパートに住んだのと、Mさんとのおつきあいが始まったのはほぼ同時だったと思う。彼女はある女子大の全共闘クロマクといわれていて、なかなかの策士であった。「ジュッパチの羽田闘争をテレビで見て感動し、おやじの金庫から200万いただいて東京に出てきた。」というから、ドラマの女優みたいな人だ。
10人位の仲間がよくアパートに来て全共闘のポスト大学版を演じていた。ある大手電気会社に組織的に入り込んだり、神田駅前でカンパ活動したり、その金を私物化した男子学生の大学まで取り戻しにいったら、返り討ちにあったり、危ないドラマもあった。
ぼくはといえば、先の見えない毎日が続き、ダイアモンド社の「つぶれ左翼吹き溜まり的な雰囲気」に耐えかねて半年で退職し、何回も引越しと転職を繰り返した。20代から40歳で立川生協再建の手伝いを頼まれるまで30ほどの職業を体験した。
鷺宮のアパートで同棲していたころは、学生運動の継続エネルギーにも終わりが見え始め、仲間も減り、僕は世田谷の実家の仕事(なんと盆栽業)手伝いを始めた。
NHK英会話をみているときにMさんが聞いた。「大学院に入る気はないの?」と。あまりにも突然の質問に驚き「え!でもどこの?」と聞き返したら、なんと「トーダイしかないでしょ。」と断言する。何を考えていたんでしょうか?それは彼女に聞いてみるしかないのですが、彼女の語気から「ドラゴン桜」になってほしいという思いを感じ取りました。最初は無理だろとおもっていたのですが、いつのまにか「やってみておれがくずでないこといを確かめよう」と思うようになったのです。映画ロッキー「アイム ノット アバム」
1年目学科試験発表の日、掲示板に自分の受験番号見つけた歓喜の瞬間、そのあとの苦労が半端なかったのでもう忘れましたが、論文審査にまでいきました。でも二次試験で失敗、2年目も学科は通りましたが、二次試験(論文と5者面談)「1点差」(当時面談者の1人だったK教授から聞きました。)でだめ。3年目は、京都大学と東京大学両方受けましたら、京都で合格したので、東大は止めました。これが人生の分岐点でした。「敗北した理論を見直して再構築する」という大義名分は捨てませんでしたが、東大に入っていたら学生運動アゲインはなかったでしょうね。東大に熊野寮みたいな面白い場所は無いからね。京都にしてよかたなー。今になってしみじみとそう思えるようになりました。次は「世間的にはすかっだった1980年代、でもオレにはありがとうの時代」についてです。光州(カンジュ)民衆の闘いがぼくの闘争本能を呼び覚ましてくれました。前川ゼミ、熊野のコンビブ&フワット活動、定例デモ(13年間)、ヅカのワンパック配達助手、新潟の柏崎原発、もんじゅ阻止闘争、国分寺の自転車班(立川生協へ)、お世話になったチロリンさん、坂内さん、たくさんの仲間たちに感謝などなど。●写真は、1/31八王子「生活舎」新年会で挨拶されている養豚生産者と後継者の津田さん、なんと35歳!これからが楽しみやね。
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by issei_tachikawa | 2015-01-31 22:45 | 自分史 | Comments(0)
c0219972_21591491.jpg1968年1月のエンプラ佐世保寄港、どうしようか迷っていた。党派に属していてもなかなか腰が上がらない時だってある。正月の朝、カラダに鉛が入ってるようなけだるさ、左下の奥歯根が化膿し痛むので、飯田橋の飯島歯科でソウハ手術、やるきを取り戻して新橋で戦った。
現地では放水浴びてもひるまずに前進する学生の献身的なたたかいがタクシー運転手や右翼青年の共感さえも生み出し、『朝日ジャーナル』がマスコミでは初めて学生と青年労働者のベトナム反戦闘争に好意的な記事を載せた。(確か当時の編集長は、筑紫哲也さん)
3月には王子米軍野戦病院開設阻止闘争を戦った。生まれて初めてのデモ隊総指揮、大隈講堂から出た部隊は、王子駅で集会後、何回か橋で機動隊と衝突し、病院突入を図った。公務執行妨害で逮捕され23日間の拘留、3度目の「くさいめし」。今だから言うが、実は計画的な逮捕劇だった。毎日のようなデモ生活で疲れたので少し休もうかとたくらんだのだ。
逮捕されることを見越して警官の後ろから右肩めがけて角材を。杉だから弱い、直ぐに折れる。比べて相手の警防は多分樫なので固い。なぐりかかった直後、うしろから2人に攻撃されて3人に両手両足持たれて装甲車に引きずり込まれた。途中でペンキ缶に引っかかって上半身まっきいろ。
23日間完全黙秘だったので誰ともコミニケーションしないでいたら、活字に飢えまくり、留置場の壁に貼ってある規則を暗記してしまうほど何回も読んだ。
出所してきたらなんとブント7回大会は終っていて、マルクス主義戦線の仲間は2日目欠席で除名されたという。なんということだ、ぼくには適切な対応ができないくらい、ショックだった。
法政大学経営学部の自治会執行部を握っていたので、5つのセクトから誘いが来る。プロ軍の太田竜、戦旗の荒、中大の中井(独立系?)、早稲田の松井くんらのL協、岩田弘さんからも「秘密党」で誘われた。ほんの僅かの期間松井くんらと学習会したが、結局ぼくは孤独の一人旅を選んだ。新左翼組織に幻滅しきったはずだった。「負けた理論を問い直し、もういちど革命の物質的・精神的な条件について解明しなくては、立ち上がれない。」と考えた。「個人の解放が組織よりも大切なのではないか」とも考えた。だから「抜け忍意識」にさいなまれながら命はつながっていたが、あのまま突っ込んでいたらどうなっていたか、なんともいいようがない。うちゲバやゲリラ闘争の総括もまだまだこれからである。さんきゅうハウスやパルシステムをやりながら、悔しい青春を振り返りつつ、うちゲバを超える道を模索しています。
その年、10.21新宿の群集反乱は見事でした。フツーのおじさんがダンプカーに乗って機動隊の阻止線に突入していく。地下通路ではいつまで続くのか反戦フォーク集会、岡林信康や長谷川なんとかさんが英雄みたいだったんだろうな。
僕はしだいに文化的なものに惹かれて生きます。山下洋輔トリオとの出会い、唐十郎・リレイセン・四谷シモン・麻呂赤児・大久保鷹らの状況劇場、健さん・藤純子のやくざ映画、ガロのつげ義春、とくにJ.コルトレーン・O.コールマンなどのニュージャズに革命の可能性を感じてテナーサックスの「修行」を始めました。
「キューバ革命はパチャンガのリズムから生まれた。」(平岡正明)を思い浮かべながら。昼は土方、夜はキャバレーバンド、やがては大学院に入りなおすための受験センソーがはじまります。
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by issei_tachikawa | 2015-01-30 22:00 | 自分史 | Comments(0)
岩田弘さんとの出会いの印象は強烈でした。経営学部自治会機関紙『創造』の原稿執筆依頼に伺ったのですが、論文1つを暗記しているようにとうとうと語るのです。レーニンの『帝国主義論』批判も当時は斬新でした。
いつのまにかブントの先頭に立っていました。赤いヘルメットが誇りでした。でも他党派の友達もたくさんいました。
法政大学だったことも幸したのでしょう。法政二校の相撲部キャプテンK氏は、経済学部自治会の執行委員長(革共同中核派)、社会学部自治会のA氏はなぜか気があった(構造改革理論が導きの糸か?)、法学部のT、Yともふつーに付き合っていたし、民主青年同盟(みんせー)以外とは「仲間」感覚でした。
登山にたとえてよく考えてみれば、それぞれがめざしている頂上にさしたる違いは無い。「ベトナム戦争実力阻止、人々の幸せ他者の笑顔」、違うのはのぼりぐちだけ、それも理屈より人間関係、入った大学の学部や就職した会社の職場でのそれがその人の党派選択に強く影響していたのが60年代学生・労働運動の特徴だと思う。
今もそうかもしれない?話を当時の現実に戻します。1967年1月17日、ぼくは立川に来た。米軍基地が拡張される、閣議決定だという。拡張予定地の農家は反対していた。このころのことは『写真集』に書いたので飛ばします。同年の10月8日は羽田闘争だった。当時の首相、佐藤栄作氏は、ベトナム訪問するという。1国の首相が戦地訪問するのは戦争協力にまちがいないというので、これを止めに入った。
前日某大学の学生会館に泊り込んだ部隊は、戦後学生運動史上2度目の角材をもってヘルメットをかぶり御茶ノ水から鈴が森ランプまでいった。(フリーパス御免)
線路の石を拾って投げつけながら目の前に立ちふさがる機動隊の壁を突破して走ったのだが逆方向に指示されで、右手に大井競馬場が見えてきた。そのうちあっというまに挟み撃ちになり、一部は高速道路から降りて再び電車に乗り、京浜蒲田経由で羽田空港突入を目指す。
中核派が弁天橋、カクマル派が稲荷橋、ブント、解放派、インターなどは穴守橋を渡らんとした。中核派の隊列にいた山崎博明くんがやられたという知らせを路上で聞く。
一旦公園に引返して体制をととのえ何度か空港突入を試みたが果たせなかった。この当時のリーダーの一人は、山梨県のある村で議員をやっている。次は、1968年のエンプラ佐世保寄港、王子米軍野戦病院開設、1021新宿米タン通過などの阻止闘争(群集反乱)を振り返ります。ブント7回大会に出れなかった悔しい青春も。うちゲバを超える道は

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by issei_tachikawa | 2015-01-28 15:33 | 自分史 | Comments(0)
ここでは1965年から1968年3月までをざっくりと振り返ります。
僕は法政大学経営学部の学生でした。入学した年の10月に韓日友好通商条約が締結・批准され、「アジア侵略の切っ掛け作りになる」との理由で自治会や諸党派が反対していました。
革マル系からブント(マルクス主義戦線=旧革通派、ブント政治局では多数は?)系にならんとしていた自治会から、クラス討論が提起され、ぼくのクラスには、Rさん(和名もつ韓国人二世)がやってきて、熱烈に演説していた。
ぼくも負けていなかった。朝日新聞社説(筆者は御手洗辰雄氏)を例に出して、「北朝鮮・中国・ソ連からの脅威(なんとアカという言葉も使っていた!)に連携して対抗することは、日本の防衛に不可欠なのだ。」と主張した。これって、生まれて初めて人前で政治的な話をしたので、赤面恐怖だったことを今でもはっきり覚えています。
このようぼくの立場は、日本の国土(資本主義までは行っていない)防衛優先でした。だからデモにいったのはなんでなのか?ここがなぞです。おそらく、もう一人の先輩,Dさんのキャラに惹かれたのだと思います。
彼は元カクマルだったらしい。59年に入学だとすれば、6年生!見た目は明治か大正の文豪でした。マルめがね、グレーのトレンチコート、長髪などがユニーク。彼の下宿(井の頭線浜田山)で鍋物ごちそうになり、女性遍歴と今の奥さまとの出会いなどについて語るかと思えば、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を熱唱したりする。魅力的な活動家でした。
ゼミも彼がいた、今井則義(東独ツイーシャンク⇒井汲卓一の流れを組む国家独占資本主義論、生産力増大と生産関係社会化が国家の経済過程介入の根拠とする説、構造改革派の理論的な柱だった)さんのところにした。まさに牧歌的な時代、法政にはあらゆる党派があったが、セクト的ではなく、全共闘も1967年春、二部教養学部自治会関係者の不当処分撤回闘争で早めにできた。(戦後学生運動史上で一挙に280名近い逮捕者を出した徹夜団交、ぼくもぱくられました。)
Dさんが結婚し北海道札幌に帰って家業をつぐことになり、ぼくは自治会の委員長を負かされることになり、岩田弘さん宅に誘われた。これがマルクス主義戦線のみなさんとの出会いになりました。当時のブント書記長、都学連委員長、東大細胞のキャップなどにオルグされたのですが、実は体育系の典型だったぼくは、細かいセクトの違いなどはまったくわからないで入ったので、「ベトナム戦争加担をカラダはって止めさせるなら」という切なる願いをもって、共産主義者同盟(ブント、1966年の第6回大会で再統一)に加わったという意識でした。
この組織で1966年から1968年まで、三派全学連もできて熾烈な反戦反安保のタタカイにはいるわけです。つぎは第6回大会から第7回大会までをザックリ振り返ってみます。(いつんなったらパルシステムに出逢えるのか気が遠くなりそう、笑い)
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by issei_tachikawa | 2015-01-28 13:50 | 自分史 | Comments(0)
最初の出会いは確か高校2年でした。「校長は党員だし、教員もそうではないか。」といううわさでした。事実は確かめようがありませんが、うわさは事実でした。
人生最初に教わった経済学が、宮川実『経済学』でしたし、日本史・世界史の参考書は今でも大事にとってありますが、間違いなくそちら系でした。編集者が・・・・でしたし。
クラスには「シャケン(社会科学研究会)」のひとが資料もって討論に来ましたが、ぼく(ら)は野球部つながりで、1つ1つことばじりとらえて反論しました。
夏休みの読書対象は、『蟹工船』、『太陽の無い町』、主義者の学校らしいです。当時は第1次高度成長時代、池田隼人首相のおっしゃった「所得倍増」計画まっしぐらの時代、アメリカ大統領はJFケネデイ、冷戦対立緊張高まりキューバ危機も騒がれた頃、野球少年だったぼくには、センセーのおっしゃることや社研のいうことが現実離れの理想論(というか日本、民族、国の尊厳とかよいところに触れないのが不満でした。)
ですから大学に入るまでは、立場は「右」(自民党支持、右系の私塾にも通ったことがあります。野球部の同僚といっしょに)
変化の切っ掛けは「韓日友好通商条約」の締結と批准でした。クラスのなかに、学習会を呼びかけるリーダーがいた。齊藤くん、外堀コール(サークル)メンバーだったからソ連系だな。読書会で読んだ本は、『賃労働と資本』、『賃金・価格・利潤』(利子もはいってたかなー?)、『空想より科学へ社会主義の発展』でした。エスカレートする「ベトナム侵略戦争」、砂川では米軍基地拡張の閣議決定・測量凶行(今の辺野古、集団的自衛権などと本質同じだな。)
時には狭山青年の家まで行って徹夜で討論したりしました。「戦争はなぜ起こるのか、ベトナムを放置してよいのか」みんな真剣でした。いつしか「目の前の戦争加担を体張ってとめなくてはいけない」と考えるようになっていました。コレ語りだすと終わりが無い。とりあえず今日はここで終ります。
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by issei_tachikawa | 2015-01-26 16:30 | 自分史 | Comments(0)
ひとんちなのにおれ(ら)のうち
ナカショク(仲間の食堂)
みんなの家(つぶれた党みたいだからいやがられるかなー)
希望の見える家
夢想放棄
なにくそ
まだまだこれからだー!
無量寿経
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by issei_tachikawa | 2015-01-21 23:02 | 足元地域から政治を変える(ライフワーク) | Comments(0)
人前で話すのはありがたい。自己認識の進化を楽しめるから。
対話ラボで「さんきゅゆハウスで何をめざしますか」と聞かれて、ますます考えた。誰かのビジョンにのっかったり、事業計画立てて歩んできたのではないから、聞かれると考えてしまいます。
でいろいろと出てくる言葉を並べてみた。
①地域文化を変えていく拠点(なんかたいそうやなー、少し照れる)
②出会いの場(これはたしかにそうだな。さんきゅうハウスがなかったら絶対に近いレベルで会うことの無かったであろう人と出会ってきた。数は数十人?)
③相談スペース
④生活困窮者の自立再生(人生やりお直し)の踏み台(SOSしてくれー!助けてっていってもいいんだよ、死ぬな!目いっぱい生きてくれ!)
そしたらいくつか標語っぽい言葉が出てきた。
・がんばらない
・急がない
・あきらめない(1点差で負けている、9回の裏二死での攻撃、ランナーなし)
で、さらに考えていたら「さんきゅうハウスに係るきっかけは?」の問への答えが出てきました。以前は「大沢さんから誘われて」と考えてきましたし、人にもそういっていました。
ところが2つの事実を思い出しました。
①2008年の緊急派遣村、参加する前は派遣切りにあったホームレスをイメージして、なんとかしたいとおもって参加したのですが、炊き出しの列に並んでいた男性は、そのみち何年(何十年?)みたいにしか見えない。少しおどろきました。これだと、年1回やったってつけやきばじゃん。各地域にこういうのがあるほうがいいよな。いや、無いと困る人も多いやろと感じました。
②当時、茗荷谷の連合会事務所に目白から歩いて通っていたのですが、駅前にいた女性ホームレスの「助けて」を聞いて聞かないふりをしてしまった自分がなさけないと感じ続けていました。こういう内的な動機があったから、大沢さんの誘いが天の声に聴こえたのではないかとおもいました。
最後にひとこと、「どこの家もさんきゅうハウスになれるんだよ」、社会全体がさんきゅうハウスになること、これが俺達の目的につながるかなー。明日のSさん通院は大沢さんがいってくれるそうです。ありがとう。国会議員vs市会議員(笑い)
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by issei_tachikawa | 2015-01-21 15:43 | 足元地域から政治を変える(ライフワーク) | Comments(0)
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あれはなんだったんだろうね?不思議な集まりでした。くんちゃんのコーデーネートで「さんきゅうハウスの話」を20分やり、ようこちゃん(たまり場運営)、ゆきちゃん(社協職員、白倉さんをよくご存知)と3人で対談のあと、ワールドカフェ3ラウンド、輪になって感想発表会、懇親会(広島風お好み焼き)終了したのは9時半くらいでした。約10時間のお付合い、一期一会かなー。
最初から驚いたことあり。初見どうしなのに竹馬の友、どこかの同窓会みたいな気安さでした。理由の1つは、コーディネートお上手(ハルさんほか主催側のキャラ?)でした。
①生年月日の順に並び替え ②家でてから今までの所要時間少ない順に並ばせたり ③3つの分科会テーブルでの自己紹介のさせかたがうまい。ニックネームで名札、声出して連呼する、今の気分?朝飯質問-イッセーは塩鯖、この集まりに期待することなどを交流させたら、10分も経たない間にみんな友達感覚になったのでしょう。
ぼくの話のテーマは
①さんきゅうハウスはいつ、なぜできたの?だれがつくったの?
②さんきゅうハウスは何してるの?
③イッセーはなぜ係り始めたの?
④イッセーにとってさんきゅうハウスとは何?
前日に大沢さんから届いたプレゼン資料も使って、さんきゅうハウスを広めました。持参した「りんごジャム」10個、須釜さんらの本5冊完売でした。
参加者の中には、とてもユニークで精力的な地域活動をされている方が何人かいらっしゃいました。Mさんは、かの有名な山田真先生のパートナー、自らも障害もつ子供の医療にたずさわり、「日本の医療に息苦しさ」を感じて、一時期モンゴルに新天地を求めたが、どこにもいきぐるしさが押し寄せてきていることを感じ取り、ふたたび足元に目を向け始めたとのこと。
彼女の語りにはほんとうに年の功(81歳)を感じさせる重みがありました。他方、モリリンの話も刺激的でした。看護師、武道家(天然理心流)である彼女は、西東京市反核市民会議も経験し、今は高齢者の介護施設で奮闘している。まあそのパワーにはみなさん圧倒されたでしょう。このいっせーでも、懇親会では聞き役オンリイ(笑い)懇親会の広島風お好み焼きうまかったー、芋焼酎お湯割の方法もお湯+焼酎(多め)で良心的。最後になりましたが、さそってくれたクンちゃんに「おれたちは戦争しか知らない子供たちだよな」とメッセージ送って、感謝の気持ちに代えたいとおもいます。サイチェン
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by issei_tachikawa | 2015-01-19 13:49 | 足元地域から政治を変える(ライフワーク) | Comments(0)

自立ってなんやねん?

自立っていうけれどその概念をしっかり措定してみたい。でないと進捗をはかりづらいからね。ぼくの場合に限定して関心ごとのポイントをいいます。
1つ、あらゆる組織からの自立?(家族?、地域共同体、会社、行政、国家)
2つ、女性が担ってきた家事からの自立。特に食
3つ、医療機関、医者、西側的医学からの自立。具体的な話では、定期健診から日々刻々自己健診への切り替え
4つ、死の恐怖からの自立...
5つ、くらし必需品を分業に任せてしまう自分からの解放(みそ、米、野菜、何でも自分でつくればうめーもんだぜ)
逆も考えてる。連携し協働したい相手さんの顔を思い浮かべる。ただしこちらのテーマは「さんきゅうハウス」、パルシステムとして追求しています。
ピケティの『le Capital』(翻訳題名は「21世紀の資本」、原題と少しニュアンス違うがまあいいか、販売促進目的のタイトル設定だからな)、去年12月8日みずず書房から出て5500円もつけとる。まあ、なんちゅうかこれでも1万部くらいは売れる見込みなのかな?
おれは買いたくても買えないよ。だから幸図書館にリクエスト。しかしだ、現在中央図書館が購入手続き中で、予約が10名入ってますだと。1人2週間の貸し出し期間だとすれば、140日、やーめたっと。
おれがかいてやろう、現代の『資本論』を。
実は、6つめの課題は、頭の良い(と思ってる自己過信の強い人も含めて)やつらからの自立というのがおれたちのテー麻なのさ。「戦争しか知らない子供たち」(頭脳警察)

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by issei_tachikawa | 2015-01-07 14:32 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)