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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

何が立川生協を救ったのか・・・(立川生協の歴史 拡大期)

c0219972_1121211.jpg●設立、労使対立、経営破たん、再建までの話はぼくにはできません。1974年設立~1985年までの話は山田理事長はじめ経営をリードされてきた皆さん、組合員、生産者、メーカー、流通業者のもなさんから聞きたいですね。ぼくが語れるのは1985年末から1990年3月連合会(首都圏生協事業連合=ジギョウレン)出向開始までです。

問1.理事会と労働組合、諸個人内部対立の原因は何だったのか?
答1.ぼくには詳細良くわかりませんが、1974年に出来た生協のリーダーシップは社会党の丸山さんご夫妻にあったようです。立川の米軍基地移管(陸上自衛隊への)反対の市民運動、若葉町団地での四つ葉牛乳共同購入運動が設立の背景にあったようです。それからいくつかの新左翼党派や全共闘運動やベトナムに平和を市民連合&ヒッピームーブメントなどに係わった人々が、新しい活動の舞台のひとつとして生協を選んだ。しかしみんな未熟(純粋)だったのか、何度も対立・抗争を繰り返し、クライマックスでは供給も停止状態だったと聞いています。1986年4月にイッセーが入協した時には職員3名から6名に増やして積極拡大路線を採るなど、ある程度再建のめどは立っていたようです。

問2.再建力の源泉は何だったのか?その1 金(供給、支払、返済、資金繰りなど)
答2.それでも買い支えてくださった組合員さんに感謝したい気持ちでいっぱいです。僕が入った年の12月にオフィスコンピューターを導入するために組合員カード(ノートに貼り付けられていた)で確認したら登録693名でした。配送トラックは3台、注文書は手書きで班回覧、提出後翌々週の週1回配送、コースはA~Fまでの6コース、専務のことは事務局長といっていましたが、他に1名実質専務がいて、2名が常勤役員(常務)でした。活動組合員は400名くらいだったと思いますが、400名で9千6百万の供給高というのは、1人当たり24万円、1週間4615円か、ちょっと少ないかな? 300名なら32万で週当たり6153円、このくらいは買ってくださっていたのかなと思います。今の貨幣価値に直すといくらになるかな?!

問3.再建力の源泉は何だったのか?その2 60年代の学生運動・労働運動の流れ 「地域闘争」ネットワーク、そしてご近所ネットワーク。
答3.供給停止下の立川から都内まで商品の引き取りにトラックで夜通ったそうです。この段取りをしてくださった方には再度ありがとうです。(あえてお名前はあげませんが)そしてたくさんの仲間が手弁当で配達や事務や仕分けなどを手伝いにきてくれました。このような人間のあたたかいつながりが再建の原動力のひとつだったと思います。
砂川7丁目、8丁目の組合員さんはパートで仕分けや事務に係わり、時には配達にも同乗したり、残業している職員の夜食(カレーライスなど)をつくってくださいました。この味忘れません。

問4.農業生産者、メーカー、流通業者さんの支援もいただきましたが
答というより説明。国立の安全食品センターの有機野菜、三里塚のワンパック野菜、川鍋養鶏所の卵、海老名畜産の豚肉などの独自取引もありました。代金支払も滞りがちなのに供給を続けられたのはまさに協働の力だと思います。因みに、今の共生食品は、うどんとか麺類のメーカーで、企業名何だったかな?三澤食品?

問5.徹底した組合員拡大(営業)については
説明:3年間で5億円計画作成し実行しました。2年足らずで目標達成。詳細に関しては、6月25日イッセーブログ「パルシステム前史 その3 営業も独自の工夫をした」を見てください。

問6.徹底した経費削減については
説明:職員人件費、事務機器、注文用紙作成費、事務所維持費などこれ以上けづれるとこはない状態でも気分は高揚していました。職員6名の給与は全員同額の15万円のみ。牛乳の深夜配送は、午前2時に冷蔵庫から積み込み、近所から八王子・日野など全エリアの約50%を回って8:00前に戻り、Aコースの配達に出て、その日の終了時刻は10:00になることもありましたが、早出残業手当てをもらうという発想すらありませんでした。協同組合原則を読み返す時に「職員の労働・福利厚生家庭・地域活動」という規定が無いことが不満でしたが口にできない状況でした。
事務所の机、本棚などは組合員からいただいたり、事務用品は自前で購入したりしたことも頻繁にありました。
ある日突然事務所(2階)の床が抜けたり、鉄筋階段が腐ってブラブラになったり、窓を開けたら落ちてしまったりしましたが、修理は自分たちでやりました。土工(どかた)や鳶(とび職)バイトで身に付いた技術が大いに役立ちました。

○ジョイコープ(多摩5生協=多摩消費、北多摩、西多摩、けんぽく、調布、立川生協の合併生協、設立は1996年でしたっけ?組合員数は?供給高は?後に10生協合併でマイコープになる)ができる前に、専務が宮崎成就さんになった。常務は原さんとオレ、一番厳しい時の再建で活躍した鈴木さん、藤崎さんはすでに他の生協に移籍したり、セットセンターに移動したりしていた。出向の話が2回きたがお断りした。でも3度目は断りきれずに連合会へ。あのまま立川にへばりついていたらどうなったかな?考えると面白い。

要するに死に体同然の企業経営再建するためには、経営学の常識(売り上げ急上昇、経費徹底削減、負債返済)プラスアルファが必要だったのですが、つぶれた同然の企業に商品を提供してくださるみなさん、信頼して(立川生協を愛して)買ってくださったみなさん、逃げないで経営をリードしてくださった理事の皆さん(ほとんどが普通のお母さんでしたが、皆さん美しくフレッシュで冗談かますのが得意な方、信念貫くタイプ、誠実を絵に描いたようなの方など多彩だった)が存在したことが再建の原動力だったのかなと思います。
もちろん3名の職員+応援団(月給15万ポッキリで社会保険など福利厚生一切なし)の存在も光っていましたが、なぜ誰も逃げなかったのかという問いへの答えは「7人の侍」だったからでしょう。
学生運動、労働運動、日雇い(立川自由労組)からの流れが砂川町、若葉町などの地域力と結婚して生まれたのが立川生協だったのだと思います。
そしてわすれてはならないのは、宮岡政雄さん(米軍の砂川基地拡張反対同盟副行動隊長、拡張予定地農家、故人)の土地、プレハブをお借りして8丁目の本部事務所=仕分けセンター稼動できたこと、近所の組合員さんの応援ですね。
永遠の社会革命、砂川地域から立川⇒東京⇒国会を変えていく、これは面白いね。


(6人の職員を「7人の侍」(黒澤明監督の映画)にあてはめてみました)
島田 勘兵衛(しまだ かんべえ)演 - 志村喬は、藤崎達也、「イッセーを拡大担当に、やり方については江戸川生協・北多摩生協研修、5年間で5億円生協に」の発案者ではないかと思う。いや、理事会決定だったの?ようわかりませんが。
菊千代(きくちよ)演 - 三船敏郎は、全員かな。
岡本 勝四郎(おかもと かつしろう)演 - 木村功は、原秀一だろうな、当時唯一の20代。
片山 五郎兵衛(かたやま ごろべえ)演 - 稲葉義男は、木村光治(故人)あらゆる意味で職人だったな。
七郎次(しちろうじ)演 - 加東大介は、鈴木隆(たかしちゃん)女性理事や組合員の人気者だった。失敗すればしただけ愛される奇特な人。
林田 平八(はやしだ へいはち)演 - 千秋実は小川年樹、いつも余裕と文化の香り(神秘)がある。若者、女性にやさしい。
そしてお待ちかね久蔵(きゅうぞう)演 - 宮口精二は、イッセーなのであります。
「修業の旅を続ける凄腕の剣客。世の中で頼りになるのは自分の腕だけだと思っており、勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった男」と評するが、根は優しい男である。宮本武蔵がモデル。」(ウイキペディアより引用)ハハハハ冗談ですよ。マジに考えすぎないでね。
by issei_tachikawa | 2010-07-16 16:16 | パルシステムで愛と協働のまちづくりを | Comments(0)