怖い、恥ずかしいの感情とくらし課題
2010年 07月 27日
人間誰でもいくつになっても怖いものは残る。オレはどうしても蛇が怖い。連れ合いはねずみが。ゴキブリは誰からも嫌われている。(彼らを汚くしたのは人間の都会密集型生活=環境破壊的な社会なのだが)幽霊なんて大人でマジに(理性的な世界で)怖がる人はいないかもしれないが、深夜のうすッ暗い裏通り(夜道)ですーっと目の前に現れたら悲鳴を上げるかもしれない程度には怖い。
昔は近所に暗がりがたくさんあった。家の中でもトイレは独特で、深夜に一人で行くのは怖かった。大きくなるとだんだんすれてきて、今では全く怖くなくなってしまった。(内山さん風に言うと「きつねにだまされなくなった」というのだろうか)これは文明化=都市集中的な近代工業社会においては大変残念な事実であり、少し昔の純粋なこころと関係性のありようについて見直し=復活のくわだてがあったら面白い。
【承】比べて恥ずかしいという感情は、イッセーの辞書には無いかと思うくらい不思議な感情である。例えば、毎日の山手線で、ストレッチをする。爪先立てて足首を回転する運動から始めて、最後は鉄棒につかまって1駅揺られるだけで足腰とくにひざの柔軟性が保たれる。ケーナを駅頭や街中で吹くこともある。生協関係者に会うこともある。反応は人それぞれで、投げ銭してくれたり、見ない振りして通り過ぎたり。
【転】昔はそんなことをしては家の恥といわれたり、半面で旅の恥は掻き捨てなどといわれて旅先ではしょうもないことをしてもサバサバしたり(特に男は)?環境活動をしていても個人のモラルについてISO14001などの事務所管理でやりすぎるとかえって孤立したり、環境認証企業からも指摘されたりする。日本の文化って不思議な面がある。一方で「照れくさい」は江戸の文化なのか?よくわからないが、恥ずかしいよりは定常的な文化としてもいいような気もする。ま、しょうがねーかということ。
【結】恥ずかしいかどうかの分かれ目は、自分が周りを見つめる力をもっているか、見られる側に回ってしまうかではないか。言い換えれば「きもったま」が問われる。こういう感情は文明化の進展に伴って次第に薄められていくが、その進展はきわめて遅いようだ。
となれば早く気づいて見る・見られるの位相を逆転させて生活スタイルを整える方が楽しくくらせるし、幾分かはストレス発散・健康づくりにも効果的ではないかと思う。
日本的な横並び一直線文化を越えてゆっくりと社会を変えていく、これは楽しいよ。
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