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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

何故生協に、なぜ合併だったのか(この時期だからこそあえて)

・これは天啓かもしれない、神戸、新潟、三宅、そのつど同じことに引っかかりをおぼえ、悩み同じ結論が出てきた。自然の神様は、何でぼくらにこれほどまでに辛い体験をさせるのか?
・1970年代の初め、ぼくらは学園(大学、専門学校、高校、中学問わずに学び舎という意)や労働現場からはじき出されて地域に散っていった。家庭からきたやつはいなかった(と思う)そのとき手を組んだのは小さな子どもがいるお母さんや男性支配に抑圧されてきた女性たちだった。地域と言ってもコミューン(農業共同体)をめざしたやつらは、島部や外国(カルフォーニャとかロンドン、タイ)を目指した。一部は新宿の東口や風月堂で終日ラリッテいた。しかし当時はみえていなかったが、大半のやつらは、あきらめて就職し、企業戦士としての半生を歩んだのだと思う。ときどき岡林を野音で聴いたり、天井桟敷や状況劇場や演劇集団70を見たり、ガロを読んだり、やくざ映画のヒーローに感情移入(連帯)したりしていた。さらにまたごく一部の人達は、赤軍の創設を夢に見て突っ込み挫折したり、三里塚(成田空港)闘争に希望をつなげた。本当にため息が出るくらい多様なセカンド(ANN)ステージでした。既存の政党(新旧左翼、新右翼)からはじき出されたり、分派した人々もその流れの一部を形成していた。
・活動の主舞台(地域)は立川、国立、国分寺、昭島、日野、八王子。武蔵村山、東大和も少し手がけた。生活舎と立川生協。係わった政治組織が違っていたことだけではなく、今の生協事業活動とセカンドステージ事業に深くかかわる(問題解決に役立つ)ことを思い出す。(産直、規模、担い手=役割分担、資金力など)
その1。生活舎の専務とは昔からの付き合い(40年以上)だが、いまだに共同購入会。大規模化し広域展開しない。そうすると営利企業化してしまうからという。商品カタログには近藤醸造、海老名畜産などなつかしい名前が出てくる。「パルの産直は???」だという。公開確認会なども「理念と実際であやしい」と批判され受けて立っている。ここで反論はしない。
その2.会員数は30年以上やっても数千人で、活動エリアは三多摩の一部だけ。商品の質については「こちらからどうのこうの言わないで生産者を信頼している」という。農薬・肥料・作付けなども信頼関係だと。こちらは㈱ジーピーエスを通じた信頼関係、生活舎はチョクの信頼関係。地場産直に近い。同じような質の野菜でも価格は自然食品店並に(?)高い。
その3.専務が配達もする。労働者数や管理形態は知らないが、給料はパルの半分くらいか?位階制については一度も導入していないと思う。必要ないし、あると労度意欲に逆効果だから。立川生協に限らず合併前の地域生協創設期(1970年代から80年代の前半)はぼくらも同じだった。
そこで表題への答えなのだが、資金力にかかわる部分は大きいと思う。寄付についても大規模化したからより大きく社会的な責任を果せる。「より良い物をリーソナブルな価格で」ということでもある。あまり高くては欲しくても買い続けるのは無理。広がらなければ特権になってしまう。逆に安売りに走れば自分らの首を絞める。こんせん牛乳、有機の低減農薬米、米豚や米鶏などたくさんの産直国産安全な食品をもっとたくさんの人に食べて欲しい、だったら拡大しかないということだったと思う。仲間つくりと困っていた農業生産者と繋がって世の中を変えたいという思いも強かった。生き残るためのやむにやまれぬ選択だったともいえる。
・被災者にタオル、石鹸、カイロをと呼びかけたらセンターに集まりすぎて困っているらしい。(パルシステム東京)担当者は「送り先、配達ルート決めないで集めてしまって反省してます。」いうが、ぼくはこの仕事スタイル今はもろて挙げて支持する。忘れそうだった何かを思い出させてくれる。俺達は何故働くのか、なんでパルシステムなのか、なんでセカンドステージ(リーグ)なのかと問い続けながら歩む。「いそがない、あきらめない」(鎌田実医師、避難所のみなさんの健康維持管理に取り組んでいる)
by issei_tachikawa | 2011-04-02 06:11 | パルシステムで愛と協働のまちづくりを | Comments(0)