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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

5感と社会革命の可能性 その4「視覚」(絵叉は風景、見る、想像する、希求する)

5感と社会革命の可能性 その4「視覚」(絵叉は風景、見る、想像する、希求する)_c0219972_727388.jpg立川職安で日雇い労働していた頃、雨降りで仕事にあぶれた日の食堂テレビで、パリ在住の藤田トウジ展を案内していた。「山梨の県立美術館までいってみよう。」ということになり、トシ(GPSの小川さん)の車でかけつけた。
しかし、なぜか藤田ではなくて、クールベの「水辺の鹿」に目線が吸い寄せられて張り付いてしまいコピーを買ってきた。今でも家のどこかにしまってあるはず。
クールべは1970年パリコミューンに参加してスイスに亡命し、58歳で亡くなっている。ワインの飲みすぎかビヤダルのように肥えていた写真をたまに思い出す。

いきなりですが、何でも見てしまうとその対象から臭いや音や肌触りなどが失せてしまうような気がする。逆に音だけ聴いていると、5感を刺激するとても豊かな時空間で遊べるような気がする。
2つの事例。1つめ、『泥の河』〈宮本輝)を読む。川岸に止めた屋形船で春を売り生計の資をかせぐ女性役は、加賀まりこ、主人公信雄がキッチャンちに遊びにいくと船の中はなんだかすえた臭いがだだよっている。万年床の?それともいつもセックスの?あるいは泥の河の?と想像してしまう。
2つめ、1950年代の初め、まだテレビはない。ラジオで川上哲治の弾丸ライナーが見えた!「川上打ちました打ちましたボールはファーストのグラブかすめてライトスタンドにつきささりました逆転スリーラン」となる。小さい頃からテレビに洗脳されている人は、ほんまかいなと思うでしょうが、テレビを見ないと想像力が豊かになり、感受性もバツグンに鋭く磨かれてきます。想像力は瞑想世界にも通じて、感受性と快感など人をいつまでも生き生きとさせてくれる大切な力、それを磨くためにはテレビを自己管理することも1つの方法です。

目が見えないで何かに触ると、やはり目明きが触るよりもはるかに豊かな想像世界が広がるようです。快感もすごいかも。そして聴覚でも触れましたが、目が見えない奏者の音とか歌手の声には独特の響きがある。必死に求める事の大切さにも通じているかもしれません。

目が見えると、目に前の人やモノを比較してしまう。大小、美醜、明暗などなどを比べて、分析評価し、優劣序列をつけていくのは西側(?)の発想。天空から眺めれば、所詮人間世界から見た論理と価値判断のなせるわざに過ぎないと見える。万物の命の平等性、たすけあい分かち合いの地域が見えてくる。目明きでありながら盲目の人の感受性に近づける可能性はあるか?あると思う。(昨日の多摩CBNWオフ会、堀池さん、菱沼さん、石原さんのプレゼン、刺激的でしたー。賑やかな地域、くらしたすけあい、パルシステム東京さんも出てくれたのは頼もしい。)

◎蛇足ですが、『泥の河』小説の出版は1977年、映画化は1982年、監督は、小栗コウヘイ、配役で印象に残るのは、
主人公飯屋の母:藤田弓子
のぶチャンこと信雄:朝原靖貴
館船の女性:加賀まりこ
キッチャンこと松本喜一:桜井稔
姉銀子:柴田真生子
巡査:蟹江敬三!(立川生協時は配達でときたまお会いしてましたが、奥様と2人役者志望で上京したが食えなかった頃の話に励まされました。改めてグラーシャス)
荷車の男:芦屋雁之助〈橋の上で荷車の下敷きになり轢死)
柚岡くんと馬場駅前映画館で視て、ラストシーンで耐えられずに大声で泣いた。ホールに響きわたる2人の号泣か、なつかしー。リメンバー ライク ザ(アかな?) イエスタデイ シーン
by issei_tachikawa | 2011-07-28 07:25 | 気・血・道 | Comments(0)