追悼 岩田弘さん おつかれさまでした
2012年 03月 15日
岩田さんに会ったのは、1965年の暮れだったかな?故郷に帰って家業を継ぐことを決めたD氏が、自治会の運営をオレに引き継ぐのと革共同KM派から共産同M線派(旧革通派)に自治権を移すつもりだったのだ。文京区西片自宅に伺った目的は、法政大学経営学部自治会機関誌『創造』発行のための原稿依頼だった。
彼のキッコウ論文のテーマは『「帝国主義論」をどう読むか・・・その歴史的意義と問題点』、彼は「話はこうなりますかねー」とそえてから、これから掲載される文章の概要を滔々と語り続ける。
「みんな頭にはいってるんか?!」と驚いた。体育系で戦争反対の正義感支えに動いていた僕には、とても魅力的な話ぶりだった。僕は自治会の執行委員会委員長だったので、それからしばらくしてマル線派指導部からの直接オルグを受けて、以降は1966年夏の三派全学連結成、ブントの「統一」再建大会、1967年1月7日の砂川米軍基地拡張阻止現地闘争、秋の法政大学不当処分追及徹夜団交(258名逮捕)、10月8日の佐藤首相訪越阻止羽田現地闘争とマルクス主義戦線の部隊の一角を担っていくことになる。
岩田さんの『マルクス主義の今日的課題』がバイブルだった。宇野理論のなかでは原理論に鈴木鴻一郎原理論をベースにした恐慌理論をおき、わかりやすく、使いやすかった。ぼくは、いつのまにか岩田さんの『世界資本主義論』(国際金融体制の動揺・世界危機⇒国内妥協労資妥協取引体制動揺⇒逆手取り)で情勢分析し、任務方針を語るようになっていた
1968年の共産同(ブント)7回大会までは、自分の内面においては比較的順調な闘争をリードできたが、3月の大会2日目の参加是非をめぐって党内意見が割れて、結局マル線派のほとんどは脱党し独自の70年反安保ベトナム反戦闘争を展開することになる。このときにいったん岩田さんとは縁が切れた。
マルクス主義戦線の指導者達は、数名を除いて岩田理論を批判し、労働運動や市民運動、反公害・産直生協運動などに変身する。このとき岩田さんから「秘密党をつくりませんか」と誘われて、ぼくを入れて確か6人が家に集まった。まだオクサマが元気で、腹減ったマルビ学生活動家に素ラーメンをつくってくださった。この味忘れません。
なのにオレは途中でけつを割ってしまった。頭・口・身体がばらばらで、クラスに入っても喋れないのだ。今までの自分の主張を支えていた理論が実践舞台で破綻しているから自信がもてない。かといって自分の頭で勝つための理論を構築したり、自分で組織をつくる気にもなれずにいても、いろいろな組織・個人から誘われる。誘い方の共通点は岩田理論批判、どこの主張が正しいのか間違いなのか自分で判断できない。
いつのまにかオレは、バリケードからも一線画して、「個人として70年闘争をやりきるしかない。あとは、いろいろ好きなことをやっていいんだ。個人の解放なくして革命なんか語れない。」と考えて、・・でなにがあかんねんという居直りを選んだ。(サラリーマンだけにはなりたくないと意地を張っていた)
それから約10年間、同棲・フリーターやりながら、ジャズ・演劇・漫画・大学院受験生の生活が続く。だから岩田さんとも縁が切れたはずだったのだが、1980年に再び社会運動に誘われて立川生協にワラジを脱ぐことになってから岩田さんの退官祝いに呼ばれたりして彼の研究姿勢と成果からいくつかの「伝言」を感じ取れて嬉しかった。
彼は、名古屋大学工学部出身、「人体とパソコンの構造はよく似ています。」といっていた。秋葉原で買い求めた部品で創った自前パソコンを使っていたとか?(メイビー本当)今の脱原発や生協の運動にも、それなりの可能性を認めていたようです。
岩田さんはぼくにとって、いつまでも先生であり続けるかもしれません。不肖の弟子、ユダといっても良い。坂内さんに関しては、党内では岩田さんと真正面から社会経済哲学の原理論争を仕掛けられるただ一人の(ほめすぎか?)存在であったかなーと思いますが、長くなるので今日はこのへんで。
◎岩田弘 2012年1月31日昇天 享年82歳
◎坂内仁 1994年12月23日昇天 享年50歳
「わが人生に悔いなし」 合掌・・・すめらおおがみてらしたまえやあまがした しろしたまえやとこしえに
。
進吾の車に掲示されている決意表明、幸せになれよ◎今朝の東京新聞には、取材記事載りませんでした、残念、明日かなー?「東京新聞いいよねー、替えようかなー」という友人が増えています。この間の編集方針・記事内容考えると当然だと思いますね。

