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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

カテゴライズについて(事実、理由・原因、対策)

カテゴライズについて(事実、理由・原因、対策)_c0219972_11433136.jpgカテゴライズ、つまりカテゴリイ(範疇)の動詞なのですが、クラシファイという同義語もあります。

仕事と生活の細部を見直してみると、僕らがほっておくとそのような意識でかたまって動きがちです。たとえば脱原発の署名活動ですが、最初は誰でもやってくれそうな人に語りかけます。逆に、推進側かなーと思える人から先にこえかけるというのは、よっぽどの偶然か変りもんか意図的な人(組織拡大ねらってとか、営業とか)でしょう。これが危険なのです。やればやるほどタコツボに入り込んでいって、時の経過とともに運動も停滞ししぼんでいきます。それで儲けていた利害関係者は大助かりでしょう。

「あの人は◎◎だから」という色めがねをかけて人を見てしまいがちな理由は、西欧に影響されて形成された現代日本文化に根ざしています。
1つ、人間関係、人の動きがワンパターンになっている。言い換えると、付き合い範囲が狭い。
2つ、毎日が同じと言う人が多い。
3つ、それで満たされているのか?と考えると、答えは否定的でみんなが「コレではだめだ、何とかしたい、何かやりたい」と感じているのに行動に移せない。
4つ、悟性、理性だけで物事を判断しがちです。感情、好き嫌い、右脳反応が鈍っている。プラス思考ブーム。

これが現実かなーと思います。ではなぜそうなるのかというと実は答えが出しづらいことがわかります。ぼくにも統計学的な解答はありませんので、とりあえずの仮説ですが・・・
1つ、ゆっくりいろんな人と付き合うゆとりが無い。みんなが時間(固有時)に負われている。余裕が少ない。
2つ、さっさとかたつけて次に行くほうがラクに感じる。
3つ、その方が失敗も少ない感じがする。
こんなところでしょうか。

でもみんなの思い込みが根底から覆されることがあります。その一例が3月11日事態だったと思います。1995年1月17日、午前5時55分もそうでした。

カテゴリイは覆されました。不幸なことですが、その不幸を乗り越えないと生きていけません。人と人の日頃の縁が試されます。カテゴライズしてしまいがちの人々の意識が愛と協働の方向に向けて変ります。今がそういうときだと思います。「人がどこに属しているのか、男か女か、何歳なのか、何人なのか」に関係なく、被災者支援の一点で行動をともにすれば、人間のすばらしさを体感できます。それも現場で感じるのです。

ただし、ある程度のマネジメント革新が必要になってきます。みんながどこかに集中してしまっては社会が動かなくなってしまう。だから役割分担や情報化が問われます。

それにしても日頃から付き合いが濃い近所でこういう話ができればいざという時には鬼に金棒です。宮城の石巻、清水くんから聞いた話ですが、「3月11日から数週間、どこからも支援は来なかった。だから自分達でガレキ燃やしてメシたいて乗り切ってきた。」ということ。僕の住んでいるさかえの住宅でも同じことが問われています。立ち話でしたが、次期会長と山木さんの3人で「そんときは助け合おうね」と契りを交わしました。立ち話でしたけど。

カテゴライズしてしまうのは、自分ですが、それを変えられるのも自分と人のつながりなんだと思います。
ポイントは、毎日こえかけ、誘い合うこと、気楽にたまれるスペースづくり、ユーモア、大道芸かな。音のでるおもちゃ(ケーナなど)もって歩けばいろんなひとと繋がれるよ。そうだ、動物・植物・生き物たちから学ぶ=万物共生の生活も必要だな。
「出たくても引っ込んでしまってでられない人」に手を差し伸べるにはどうすれば良いのでしょうか?信仰の力、大切ですね。宗教とか政党とか、一般的に遠慮される事柄も実は生活の一部なのですよ。これって忘れられがち、または逆解されてるね。マスコミ・ミニコミ・ITの可能性は重いですぞ。
by issei_tachikawa | 2012-03-22 11:39 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)