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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

そのひぐらし、日雇い、野宿者

大学出ても就職する気になれなかった。あっというまに6月になった。先輩から電話で「しばらくうちにわらじを脱がないか。」と誘われて、ダイアモンド社(週間ダイアモンドとかプレジデントを発行)入社、就職ガイドブックでは2000社から出稿料=A4モノクロ1ページ100万円いただいていた。20億の事業高、当時大卒初任給平均が4万くらい(今は20万円超)、物価は3分の一だったからそれなりの売り上げだったと思う。

そこでやめなければ人生どうなっていたのか?よくわかりませんが、いまのようにならなかったことは間違いない。辞めた理由は、自分も周りも許せなくなってきたから。ダイアモンド社といえば出版業界では有名ですが、開発事業部にはモト活動家が集まっており、仕事の合間や呑んだ時には学生運動や労働運動の延長戦的な話が飛び交う。ぼくにはこの感覚が耐えがたかった。

自分だけがいいかっこするつもりはなかったが、1人になってもう一度考え直してやり直そうと決めて、専務に辞意を伝えた。その人と大学ゼミの同窓会で4月6日に会うのは何かとても不思議な感じがする。おれもしぶといが彼もなかなかだ。労働争議激化⇒労組が会社にバリケード⇒専務はヨーロッパに逃亡⇒帰国後再起(同業で)、今に至る。

僕のほうは20代はずーっとそのひぐらし。キャバレーバンド生活、貯金なし、高田馬場で日雇い。西村ケンタさんの『苦役列車』(芥川賞受賞)そのものみたいな生活の連続。今でも朝の仕事に遅れてどなられる夢とか帰る家がない夢を見る。手渡し作業中に足場板を落下させて、鳶の世話役(現場リーダー)の崎山さんに怒鳴られたこともある。帰りの総武線車中で突然、「おまえなんか顔もにとーもない、声もききとーない。」と怒鳴られたのにはびっくりした。

まさにどん底生活。財産も地位も定職ももたず、家族も友達も、1人の女性(人生の恩人、母親以上の存在感学生運動の同志)以外は何もいなかった。アパートに帰れば深夜になっても「追求」されたり「励まされたり」がおわらなかった。期待にこたえられない、なさけない、やけくそになる。明日の希望も何もない。そのときのおれが今の野宿者に重なって見える。「助けてるんじゃないなー、むしろ励まされ助けられてる。」と感じてしまう。他のスタッフはどうなんだろうか?

旧さんきゅうハウスで暮らすAさん、歯が全部抜けてしまってものをかめない。歩行も困難。下の世話も大変。毎日交代で食事を作りにいく。僕の当番日は木曜日だが、精一杯彼の命を支えようと思う。
by issei_tachikawa | 2013-03-23 21:43 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)