どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

山本哲郎さんの死を悼み、感謝のメッセージを天に送ります

c0219972_15492812.jpg90歳越えても記憶鮮明で「第二次世界大戦」、光機関の戦いを語り続けました。ビデオにも収録されています。
彼の話で印象深いことを3つ紹介します。
1つめは、敗北した軍隊のくずれかた。
2つめは、インド独立と光機関の係り。
3つめは、弟への思いです。
1つめ、彼は、インパール作戦で最後まで生き残った上等兵(?)でした。敗戦が決定的になるとトップから崩れていったそうです。「部隊長が飛行機で逃げる、役員クラスは自動車で、部課長クラスは自転車で、自分は最後まで陣地に残り、証拠隠滅してから闇に逃れました。」といっていた、彼は、インパール作戦で最後まで生き残った上等兵(?)でした。「戦闘での死者よりも、餓死やマラリヤ、破傷風なんかでやられた方が多かった。」といってました。
「二度と戦争はしてはいけない。」ともおっしゃっていました。
「鉄砲撃ったのは1回だけ、それも牛殺して食べようとしたが、弾がそれて叶わなかった。」とか。
亡くなる前に「アメリカの缶詰がほしい。マルショーで売っているから買ってきてくれ。」とおっしゃっていて、周りは困ったらしい。飢えた時にそれで生き延びた体験(思い出)かな。
彼は連絡があるまで現地で潜伏していろという軍の命令通り数年間帰国しなかったので、死亡者とされていて、帰ってきた時、家族がどんだけ驚いたか。
2つめ、大川塾生は、光機関という秘密組織で、今のイラン(昔のペルシャ)からベトナムまで派遣されていたという。
「大川周明センセーは難しいことは指示されなかった。『現地の人に日本人をわかってもらえ。友達をつくれ。』が主な指示だったとか。
関東軍の暴発がなければ、歴史はかわっていたのかもしれないという気もあったのではないかとおもいますが、今の僕には2.26含めて皇道派の戦いを評価できるデータが不足しています。
戦争の一般論では説明しきれない、軍内部の意見対立と行動の相違の評価は今後に回しますが、(明治維新とはなんだったのか?に通じる問題意識です)インドのチャンドラボースと光機関は手を取り合ってイギリス軍とたたかい、独立を勝ち取ったというのは「事実」でありましょう。
1950年代、ネール首相から哲郎さんに『感謝状』が届いています。
1975年4月30日、「サイゴン陥落」の日、光機関の生存者が元の本部場所に集まり、涙ながらに万歳三唱した気持ちは、信じたいものです。あの戦争は、マクナマラも自己批判したように「民族独立戦争」だったのでしょう。廃盤になった「共産主義からの防衛」というLPを後生大事に持ち続けるイデオローグがまだいるという事実にも不気味さを感じますね。
むしろ、大切なことは「日米地域協定」見直し、不平等条約改定、沖縄に民主主義を(普天間基地の辺野古移転取りやめ、高江のヘリパッド工事中止)アメリカからの「独立」ではないか。
3つめは、芳郎さん(弟)の葬儀でのかれのメッセージです。うまく伝えられませんが、出征直前「にんちゃん!」って叫んだのだそうです。兄弟感覚がわからないイッセーにはそのメッセージをいつまでも記憶していることが、とてもうらやましく感じました。
「相送当門有済竹 為君葉葉起清風」(あいおくりてもんにあたれば きみのためようよう(?)清風を起こす)送天謝意 合掌
西東京市のお寺でお通夜、告別式でしたが、「個人の意思でご香典等はご遠慮させていただきます。」とのこと、かたじけない。
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by issei_tachikawa | 2016-08-06 15:51 | 尊敬する日本人(そんにち)シリーズ | Comments(0)