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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

あえて沈黙を破ります

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トクサンと意見が一致していたなー、1つ思い出すことあり。「カテゴライズしていてはだめだよね。」ある時彼がこういいきった。ぼくもすぐさま、異口同音、アイシンクソーだった。
一般論の歴史を紐解けば、「ミネルバのフクロウが飛び立った」後で、一般論的な反省や攻撃(防御,応酬)があったように思える。
魔女狩り、宗教改革、資本主義批判と社会主義・共産主義の宣伝、ずーと飛ばして冷戦時代の終了(ベルリンの壁崩壊、ベトナム民族独立戦争勝利=アメリカ他のキリスト教十字軍敗北、天安門闘争)と新時代の到来(グローバリゼーション、世界先住民会議、非同盟中立路線の崩壊、アメリカ主導の大義も仁義も無い戦争の泥沼化)を振り返る。
今の文化現象だって、それらの世界史的「事実」とリンクしながら生成消滅を繰り返してゆく。生協は営利企業に対して「愛と協働」を推進することで、もう一つの地域を作りながら、政治権力に対しても対抗してきた。平和・民主主義・自然と環境・愛と協働、これらの理念は死んではいない。
しかし、今の社会現象の中で、どうしても腑に落ちないことがある。その1つが、「体罰」「指導死」「いじめ」をどう見たらよいのかという問題。相変わらず悩んでいる。もう何年になるか?
結論なんかでない。考え続けること。当事者に寄り添うこと。逃げないこと。俺しかいないと信じること、これがぼくのいまなのですが
日野テルマサさんの「暴力」について、批判が多い。マスコミは僕には今の関心事ではない。高橋亜美さんのコメントに感じることが多い。今の状況下ではどう考えても彼女の意見が正論かもしれないと思う。しかしだ
ぼくの小学校・中学校時代を振り返ってみるとどうしても語り伝え切れていない「事実」があったことを思い出す。
1つは、体罰を受けた人(ぼくもその一人)、髪の毛を頭の後ろからつかんで机に押し付けていたなー。おれは、小学校4年からぐれはじめて、中学校3年まで4人の担任のうち2人から「体罰された」平手打ちと竹のむちで。おれの頬に向かってくるKせんせーの右手のひらのぶあつかったこと、スローモーションでおぼえている。Nせんせー(野球部顧問)は、言うこと聞かないぼくの眉間にたけの鞭を十文字に食らわせてくれた。
今の社会現象との違いがある。おれはこのこと、おやには一切話さなかった。そして親も忙しくてというか、無関心というか、自分のことで精いっぱいだったのかもしれない。
そしてもうひとつ、やられたほうはやったせんせーと仲良くなった。今でも尊敬している。体罰しなかったセンセー(横溝正人)ともおれは亡くなるまでおつきあいしていただいた。玉大に行ったKは、ゼンキョートー運動に熱心だった。
もう一つ、いじめを受けていた友達、そーちゃん、たかはし、強くなったと思う。高橋君は、足が悪くて引きずるように歩く。授業中に彼のうしろから缶詰の魚をぶつけるけしからんやつがいたが、彼は負けなかった。1980年代の日比谷野音の集会で会ったら、なんと青ヘルだった!おれは嬉しかった。会いたいなー。
指導死についてはまだコメントできませんが、うちの次男や娘も高校ではとんでもない「指導」をうけていたと記憶していますが、彼らはその力を跳ね返して、今はたくましく生き抜いっている。一方で自殺に追い込まれる子どもがあとをたたない。無縁死(アパートでの孤独死や行倒れ)が年間3万人も出ている。いきなり解決策なんか思いつきませんが、考え続けていきます。
●画像は「さんきゅうハウス」の江川清さん。彼の話は、『のんびる』2016年11月号に載っています。「ホームレスやってよかった。やらなきゃわからなかったこと、体験して得た友達、気持ちの強さ、たくさんあるよ。」とつぶやきます。

by issei_tachikawa | 2017-09-05 08:05 | イッセー心理学、行動哲学、唯身論 | Comments(0)