林治代さんが亡くなった。享年73才、相方は林喜代美(実は喜代三)、2人は千葉出身、高校の同級、なんと生まれは1946年10月8日、木の日だ。木が合わさって林だけでも面白いのに、結婚する前から2人とも姓は林だったという不思議な出会い。
おれと2人は、せーきょーの戸別訪問で知り合えた。史上初の「返信葉書付の営業ちらし」で始めて説明会希望してくれたのだ。
全てが初めてなのに、最初の出会いで、3時間ほど居座ったかな。いやいや正確な時間なんて3人とも覚えていない。それくらいに意気投合したということかも。
あれから34年、こんな別れは全く想像できなかった。あんなになかよかった2人に別れがあったなんて。
女性の方が長生きだなんていわれますが、逆もある。そしてありがちのことは、神さんに先立たれた男は実にもろいという事実だ。
わが尊敬する西部邁氏もすぐに後を追ってしまったし、あのパンクロッカー内田裕也ももろかった。決して、かれらをだめだといっているわけではない。だめだといっているわけではない。おれだって上さんに先立たれたらもう身も心もぼろぼろであろう。おそらく人前で喋ったり無理だろうと思う。そしてすぐに後を・・・となる。
喜代美もそうかなー、だろうなーと気を使う数か月だった。葬儀はいきなり焼き場で、さんきゅうハウスからの「旅立ち」と同じだったので、親近感が持てた。坊さんも呼ばない、戒名不要、樹木そうなので墓も要らない。大地に還るのだ。
きよみ、涙一つ見せない。火葬場でおどろいた。待合室の窓の向こうにモンキチョウが、「あっはるよさんだ。」
それから何日かして追悼のつどいでも彼は元気で、来た人を喜ばせたり、安心させたり、おれも信じられなかったが嬉しかった。
そして先日、6月27日(土)に、玉川上水の「緑陰トーク」で、彼らが40年かけててがけてきた目高舎(めだかや)活動の報告会が開かれたので参加しました。
そしたら丁寧なお礼の手紙が。「先日は来てくれてありがとう、嬉しかった。アンケートに『私が誘った』と書いてあったけど、私は誘っていないよ。上水駅で会ったときに『どうしてあることを知ったの』と聞いたら、『ぼくもアーカイブの会員だから』と言っていたけどね。
それはどうでもいいんだけどね。目高やをほめてくれてありがとう。
資本主義にちょっと触れたところでは、いいたいこともあったんじゃないの?まあ、いずれこの先は人類非常に危ないと思っているよ。第6次大絶滅が進行しているように思われますし。今年生まれた人が働き盛りになるころには分かるのでは?
貴兄もミニコミを頑張ってください。百歳時に『ミニコミ40年』の話でもしてください。ご活躍を祈ります。」
真夜中に夢から覚めたらいくつかの啓示がありました。
うちの子どもらは3人は、みんな目高やで育ったんだなー。穂ノ原村キャンプでのまくら投げやバーベキュー楽しかったろうね。ひこばえ荘の建前の瞬間、屋根からふってくるおもちやお菓子をとろうとしてみんな必死でしたね。共同保育もよかったし、協働耕作畑にぽんこつローレルで夜に堆肥もっていったらバッテリーあがってしまい、みんなでおしてなんとかなったりね。目高舎、こちらこそありがとう!子育てというより親自身の教育になりましたよ。
目高舎とは何だったのか?そうそう、「地域家族」ではないかな。
林君、ここまできたんだ、あと10年生き延びて2つのミニコミ(目高や通信とイッセー通信)合同なんとか会やろう。樹木葬はそれからでも遅くないよ。