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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

書ききれない何かが残る「ジマン」話

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大学2つ行って、学生運動2回もやって、なにが「ジマン」なんですかね?おかしいとおもいますよね。笑ってる人も多いのでは。ぶっちゃけた説明が要りますね。
1つめは法政大学経営学部を選んだ理由などの話。野球やることしか考えていませんでした。中1からずーっとやってましたし、勉強は「横溝先生の英語」除いていっさいやりませんでしたから。なのによくはいれましたねと聞かれたら答えは、付属高校だから、ふつーにやってれば60%の成績をとれば進学できたのですよ、ということです。
あと、なんで「経営学部」を選んだのですか?への答えは、「卒業論文なしでも卒業できたから」です。あと、僕の場合,1968年から卒業時(1970年3月)まで、ほとんど授業は出ていないで、試験も受けなかったことがあるのに卒業できたのは、あたたかい先生にめぐまれていたということなのです。
とくに今井義則先生(東独のツイーシャンク⇒井汲卓一の系譜をつぐ国家独占資本主義論で有名、生産関係の社会化に国家が経済過程に深く介入する根本理由を形成しているという考え、構造改革論の基礎理論、共産党は彼らを日和見主義者、改良主義者として批判してました、よね。)にはお世話になりました。
おなじような60年代学生運動体験者でも、リーダー格だった人は、「大学中退、除籍、放校」などが多いのに、ぼくは卒業しています。理由は、1968年3月の「ブント7回大会」にあります。マルクス主義戦線が、2日目をボイコットしたが為に追い出されたのです。ぼくは幸いその日は「獄中」でしたから、一切かかわれませんでした。
幸いと書きましたが間違ってません。その時に残っていたら、まあ、いまこうして生きて居られるかどうか、わかりませんがら。(笑う)でも、あれから50年、長い間「抜けた忍者」意識につきまとわれて、苦しみました。そのご褒美が、いまの「さんきゅうハウス」での出会いのかずかずなのです。結果的にラッキーな人生でした。いずれおちついたら、小説にしてみようかな?
(画像の説明)
吉村鋭治、生きていれば129歳、おやじです。
吉村文、同じく122歳、おふくろです。

by issei_tachikawa | 2020-12-15 10:59 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)