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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

引っ越し体験、ジンセーふりかえりその2

法政大学での学生運動から足洗えないでいえでごろごろしていたら、先輩から電話があり、「うちでしばらくわらじぬがないか?」とさそわれて、渡りに船だった。
就職先は、なんと「ダイアモンド・ビッグ」社、もとは細胞のキャップが専務取締役、その部署にはなんとかくずれ(悪いね)が集まっていた。
法政大学六大学リーグ野球で優勝時の応援団長、岩波書店労組委員長、そしておれは、法政大学経営学部自治会委員長と書記長などなど。要は、学生時代の「あまりにも本質的な(過激なと課いう訳は間違いだとおもう)」行動の結果として、日本資本主義社会の会社就職できなかった活動家の再生拠点として、出版社の一部が機能していたということだったとおもう。
そこにいたのは、1970年6月から10月まで。6月に生まれて初めて世田谷区岡本の大ブルジョア村から、渋谷区幡ヶ谷2-2-2に引っ越すことになった。
あらためて母親の愛を実感できたことはしあわせではありますが、一人生活の解放感に浸れたという気分も重たかったです。
そこもやがて出ざる負えなくなり、次は新宿区高田馬場早稲田通りから5分くらいの、戸塚消防署(警察でなくてよかった、笑い)所長のおたくの2階のアパートに「2人で居候」となった。今井ゼミで後輩だった石原君(故人)の部屋にあがりこんでしまったのでした。石原、やさしかったなー、いまでも感謝の念で胸がいっぱいです。女性一人に男性2人の生活は、きわめて「スムース」にながれていきました。「世の中変えてやろうぜ」という意志一致あればこそだったのかな、たぶん。
以降は、40歳になるまで「旅人」(竹中労さんは「世界革命浪人」といっていたなー、なんとなく「サンバカ」(竹中、平岡正明、相倉久人に轢かれたことも、太田竜さん・荒袋介・岩田弘にも誘われましたが、みんな断った)生活でした。馬場の次は池袋の雑司ヶ谷墓地の南側、さらに赤羽、阿佐ヶ谷、鷺宮、岡本の実家、祖師谷の借家、京都熊野神社西入の中島電機さんの2階のアパート、京大熊野寮、三里塚の中谷津の小屋(空港廃港目指す現地闘争の拠点)池袋西口から徒歩5分のアパート、国分寺の「坂内ハウス」、そこでいまのおかあにであい、結婚してから立川市住民になり、それまで嫌っていた(避けていた)定職・定住・子育ち・地域闘争(経済闘争と政治闘争の有機的な結合)、経験豊かなお母さん・お父さんから学んで、1万件以上の農林水産者(生産者消費者協議会を結成)とともに歩みつづけています。
コミュニズム(自治と協働)とアナルシ(アナーキズムというよりも「絶対自由」「究極の秩序」を追求し続けること、アイヌ・琉球・アンデスなど世界の「先住民、原住民、ネイテイブ、インディヘナ、なんというべきか?」を掲げています。
「砂川狼」となのってきましたので、ここが死ぬ場所かなとおもってきたのですが、どうも予定はあくまで変更もありだったようです。
すめらおおがみてらしたまえやとこしえに、山川草木悉皆成仏、南無阿弥陀仏をとなえています。神仏のみならず、世界中の諸宗教は、仲よく仲良くでありたいです。

by issei_tachikawa | 2023-11-29 11:54 | 自分史(1946-2066) | Comments(0)