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どうせやるなら気持ちよく、地域家族へ


by issei_tachikawa

カテゴリ:日本史:明治維新の過ちなど( 11 )

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千利休(以下、利休と略す)のことが思い浮かんだ、まめ吉に向かうチャリの上で。不思議なことに利休の求めた茶室、茶道とまめ吉の山口さんが今まさに追及されているコーヒー道とアトリエの共通性に気が行ったのだ。
利休についての説明は省きますが、秀吉が彼に求めたのは、大衆茶道というか彼の天下統一政治に役立つものであったらしい。茶器もはでなものが主体、茶室もオープンだったのだろう。
比べて利休の抹茶茶碗の基調はわびさび、茶室も質素で小規模、1畳半のものさえあったらしい。
まめ吉工房も小さい。なるべくお客が誰もいないときにいく。山口さんと2人のやり取りが実に豊かさを満喫できるからだ。
でもときどきは友達を連れてきたくなる。今までも何人か誘ったり、あるいは希望されたりでここをおとづれている。
督さん、直美ちゃん、ワイナの仲間、豚の校長、さんきゅうのカフェスタッフ、近所のMさん、さんきゅうカフェの常連さん(まさるさん)もきている。
ここへくると、素直になれる。なんでもはなせる。事実に対して敬虔な気持ちで直面して、自分の6感と理性となにがしかで判断した言葉を発せられる。
これがじつは、日常会話では実に、難しいことなのだ。
誰かが亡くなったとき、吉本隆明さんが、いやちがうかもしれない、吉本さんが亡くなったときにだれかが「ひとつの直接性が倒れた。」と表現した。
日常会話では変化球や向こう側からの玉も必要なので、日本語にはたくさんの1人称や二人称ができている。
比べて英語はシンプルで、アイとユーしかない。日本語だと、おれ、ぼく、わたし、わたくし、てめー、あたい、せっしゃ、わて、おら、おれどなどなど、地域語いれたら覚えきれない1人称の呼び方がある。
まめ吉での会話には、直接性の快感がある。不思議な魅力だと思う。お互いに気は使ってはいるがあるいみ自分が正しいと感じることには、非妥協である。
秀吉と利休、最後は利休の切腹で終わったように見えるが、なかなかどうして、茶道の三千家(表、裏、・・・)は利休没後に秀吉自らがなずけたようにもおもえるし、利休の死を誰よりも嘆き悲しんだのは切腹命じた秀吉自身だったのではないかという邪推もけせない。関ケ原決戦における西軍の動き、光成の行く末、家康の動きにも利休が絡んでいたようにも感じる。
ってなことを感じながら、今日も「まめ吉」道場に通うのである。

by issei_tachikawa | 2018-09-05 11:09 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)

経営者論(小説です)


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2つのタイプに分類できる。成績の優劣?ではありません。生涯稼得賃金の多少でもない、人気といってもよいのですが、一緒に働いていて楽しいかどうかが重要ではないかといっせーは考えています。
いきなり明治のクーデター前、50年の歴史をひもときますと、勝か小栗か?(ビルゲイツかスティーブか)という選択肢に入ります。
人類史は勝を選択しました。ちゅーか、小栗は歴史から抹消されて、勝が独り勝ちで天寿全う。なんともやるせない。いっせーはなぜか小栗が消されたのが解せないので、勉強しています。
小栗上野介順正、といえば、徳川幕府官僚のエリート中のエリート、安倍内閣でいえば今井尚哉か前川喜平かと言う位置でしょうか。
1860年小栗率いる77名がポーハタン号に乗って、アメリカにおける産業革命の実態調査と世界の産業化の事実調査に出かけました。
勝海舟が乗っていた咸臨丸は、そのポーハタン号の先導船だったのですが、勝さんは船酔いでずーっと寝たきりでつかいものにならなかったという報告もあります。
なのに、明治時代の教科書では、英雄扱いです。小栗などは、日本史教科書に名前すら出てきません。
なんでや?というのがイッセー研究のテーマの1つ、小栗は消された、勝はよいしょされたというのが仮説です。
だれがやったのか?明治新政府=長州政権です。もちろん小栗の構想は南北戦争勃発以降は破綻し、幕府側がナポレオンに頼ることななったという誤算と、長州が発展するイギリス資本主義の成果をどん欲に導入したという背景説明もできますが、
でもそれだけでは疑問が消えない。なんで勝が勝ったのか?なんで小栗は負けたのか?
経営者論に戻します。勝は人気があったんだろうと思います。遊びごころにたけていた?勝さんといっしょにいると時間忘れられるんだよね、という部下が多い。なんか面白いんだよね。
他方で、小栗の長州征伐反革命戦略は、事態を統制派か皇道派か?という設定にすれば面白いのですが、いきづまりの幕府侍政治の次を見えるかさせるには不十分でした
ということで、勝は勝って天寿全う、スティーブはビルゲイツに敗けて他界、パルシステムにおけるビルとスティーブの勝負はこれからです。
あなたはビル(S)派?それともスティーブ(N)派?

by issei_tachikawa | 2018-07-17 16:58 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
武田信玄から始まりクリントンに至る。でも、小池百合子にもいたのは誰もしらないんちゃう?
都知事選前の高田の馬場演説会、ぼくはたまたま『のんびる』仕入れに行く途中で、彼女のブタイと出会った。
改札を降りたら、小池百合子さん本人が目の前にいた。両脇はグリーンのTシャツ着たイケメンが2人、どこから来たのか?バイト?党員?
てなことを考えながら彼女の選挙カーの上を見たら、「コイケユリコ」が手を振っている。え!と思って本人確認したら、間違いなく本人は僕の前にいる。
いやー、かげむしゃやー。
クリントン、どうなるんかいな。トランプが勝つと、世界政治はどうなるんやろ?しんぶんによれば、プーチンはトランプに親近感もってるとか。
小栗上野介順正の研究には、区切りをつけましたが、ますます彼が好きになりました。最後の言葉「さわぐでない。」この一言に、かれの侍だましいが表出されているように感じます。
ラストステージで免職され、高崎の山奥に引っ込んでいたのに、西軍の東部方面軍(隊長は岩倉具視の長男)にとらわれて、裁判もなしに、烏川で打ち首。なんとかして助命嘆願しようとする周りに気をつかいながらいったひとこと。
影武者を使ってまで政治に執着するってのはどうゆう神経なんだろーか?小栗の爪の垢でも煎じて飲むと良い。辺野古判決政府追随の判決、最高裁に上告されたが、裁判長は安倍のシンパというか安倍が任命したのだから、政府寄りの判決は必須である。
さてどうたたかうか?
by issei_tachikawa | 2016-09-17 22:04 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
c0219972_211336.jpg1.戦う気がない彼がなぜ殺されたのだろうか?それだけの実力者だったということか。
2.誰がやったのか?だれがやらせたのか?
3.仮に小栗の徹底抗戦路線が採用されていたら、戊辰戦争の行方はどうなっていただろうか?
4.明治維新って何だったのだろうか?
5.ぼくは、なぜこれほどまでに小栗に関心をもっているのか?

1.彼が生きているとやばいと感じた人間がいたに違いない。それだけの実力者だったということ。幕府の官僚(勘定奉行はいまだと財務大臣、経済産業省?外国奉行、これは外務大臣、軍艦や歩兵奉行などを経験、69回も罷免・辞任・再任くりかえしたあげく70回目で完全離職)として、実績はいまだに光輝いている。明治政府に加わっていたら?
・77名率いて目付け役でアメリカにわたったのが1860年、乗った船はポーハタン号、ついでに世界一周して帰国した。勝海舟の咸臨丸は、これに付属するもので、勝は船酔いで、ほとんどまともに働けなかったらしい。(史実)
・薩長がイギリスになびいたのに対して、幕府は南北戦争勃発後はフランスとの連携を重視していた。歩兵部隊の近代化にもナポレオン軍の将校が活躍したという。鉄砲もフランス製。横須賀に製鉄所建設を提案したのも小栗だという。勝は「船なんて外国から買えばよい。」と主張。
・そのほか、郵便局、ガス灯、最初の株式会社、フランス語学校を提案していた。
2.東部方面部隊の隊長は、岩倉具視の長男17歳、次男も加わっていた。血気盛んだったのだろうか?烏川で小栗を惨殺した死刑執行者はわかっているが、指示した人間はわからない。証拠は残さないだろう。くやしいがこれ以上はいまのところ謎である。疑問と悔しさを抱えながら、生きていこう。
3.西軍は壊滅的な打撃をこうむっていたかもしれない。ただし、軍事力学的な話である。鳥羽伏見の戦闘がはじまったとき、幕府軍先頭の鉄砲隊は弾つめていなかったという歴史家もおる。トップの慶喜は「二心様」といわれたくらい、将軍失格者だった。小栗が気の毒でならない。駿河台の屋敷には彼の霊がいまだに出没しても不思議でないくらいだ。江戸開城直前で、幕府海軍の艦砲射撃と会津、庄内、新選組、彰義隊、見回り組、榎本武揚&大鳥佳介などの部隊の突撃が実行されていたら、戊辰戦争も、違う展開を見せたかもしれない。(大村益次郎=村田蔵六、NHKドラマにもなった)証言)
4.明治維新とは、長州のクーデターだったのかもしれない。そのごのイギリスグラバー商会とのつながり、産業革命と戦争(アジア侵略)政策で、江戸の文化、江戸の自然、江戸のリサイクルの仕組みは徐々に破壊されていく。
アイヌなどの日本列島先住民をだまして征服した大和んちゅーの徳川政権が、長州、西軍のクーデターで敗れたということだと思う。
今の安倍政権のアメリカ追随は、この時期に始まった。ベースにあるのは、吉田松陰の考え?(朝鮮、満州は日本の領土だと考えていた?!)
5.血が騒いだのかもしれません。イッセーのひじいさまは、慶喜さんの足軽大将(60人ぶち)だったときいています。おやこさんだい江戸っ子です。でも、それだけで小栗にひかれたのではなさそうです。
運の悪い、生き方が下手なひとって、まさにおれじしんなんだよな。小栗上野は、福澤諭吉さんもおっしゃるように「やせ我慢の美学」を持った人だった?みやちゃん、だいすけ、金曜カフェスタート、おめでとう!来週もやろうぜ!
過去を調べることは、未来への道を照射することだとおもう。歴史は作られる。もちろん勝者によって。しかし、大事なのは敗者の声も聞くこと、勝ち負けでなくて、政治や社会活動において何が大事な視点なのか?命の循環、他者の笑顔、喜捨、与え続けること、浄化への道、26日、『ホピの予言』上映会です。前売り900円でチケット販売中。
by issei_tachikawa | 2016-08-19 22:03 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)

追悼:小栗上野介順正殿

c0219972_2132479.jpg小栗上野介順正(以降、小栗と省略させていただきます)をご存じない人が多い。いや、知っている人でも名前だけで、いつの時代に生きて、何をやったのかを知っていた人は、僕の関係ではわずか2名で、吉良上野介と間違える人もいました。
比べて、勝海舟、榎本武揚は名前だけは知られています。勝などは、「咸臨丸を指揮して、初めてアメリカに渡り・・」として、修身教科書(戦時中のです)にでていたくらい。西郷と談合して、江戸の無血開城に成功した明治の英雄のように考えている人もいます。彼は享年77歳、しっかりと天寿全うしています。
榎本に至っては、徳川慶喜(最後の将軍)の西軍恭順路線に反対し、徹底抗戦を主張し、新選組,会津兵などの生き残りを五稜郭に集めて戦ったのに、明治新政府の海軍大臣になっている。伯爵の称号ももらい、これまた天寿全う。
小栗も長州西軍せん滅を主張したが、慶喜に罷免され、群馬県の山奥に家族と従者を連れて引っ込んで、彰義隊からの支援要請も断っていた。なのに、中山道を進んできた東部方部隊に、上州3藩がからんでいるらしいが、とらえられて裁判にもかけられずに烏川で打ち首されている。
おかしい?ですよね。
1.戦う気がない彼がなぜ殺されたのだろうか?
2.誰がやったのか?だれがやらせたのか?
3.仮に小栗の徹底抗戦路線が採用されていたら、戊辰戦争の行方はどうなっていただろうか?
4.明治維新って何だったのだろうか?
5.ぼくは、なぜこれほどまでに小栗に関心をもっているのか?
この数か月、入手できるものを読み込み、考えてみました。インターネットで東善寺(曹洞宗)を見つけて、16日にお墓参りしてきました。住職のお話を、3時間ほど伺い、何人かの友人と意見交換して、ようやく小栗研究に一区切りつけてもいいかなーとおもえるようになりました。
過去を調べることは、未来を照射するためです。重箱の隅をつつくような研究自体が目的ではありません。とりあえず、このへんで区切りをつけたいと思いました。上記の1~5までの答えは、次に展開します。(続く)
by issei_tachikawa | 2016-08-19 21:57 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
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八丁目の高崎さんから同窓会(法政大学、1960年卒から1972年卒くらい)に呼ばれて「さんきゅうハウス」への応援を訴えました。
田中さんの話はもうかなりポピュラーなので紹介不要でしょうが、あえて1つだけおすすめするなら「百姓一揆」論のユニークさですね。何で起きたの?分かってない人が多いのでは。原因は実に多様だったらしいですが、江戸や都市のリサイクルシステムにからんでいたのが面白い。使い物にならなくなった着物を燃やし灰になったらそれを集めて農家に売る仕組みが出来る。農家はそれを肥料にするから価格騰貴が過ぎたり、長く続くと不満が鬱積して、やがて一揆に発展したりもした。ただし人殺しはしない。略奪もしない。実に統制が取れていて「民主主義の原点」ともいえる展開をみせていたという。彼女の『カムイ伝講義』に出ている。ぜひ読んでほしい。今の辺野古問題、原発再稼動や反貧困運動の原動力が実は日本史に連綿と実体験されてきていたのではないかとも思えてくる。
続く余震(余韻)。3つに絞ってつぶやきます。
1つめ、「あんどんで浮世絵を見た時の話」、電気の無い町や村を想像しながら聞き入る。夜に本なんて読めんじゃロー。夕飯も夕方に済ませて、1日二食だな。(彼女もそうだとおっしゃっていた)「最初にこれはとても見えません状態でしたが、目が慣れてくるとはっきりとした絵が見えてくる。広重、北斎、浮世絵は、ゾクゾクするほどすばらしい。」とのこと。2011年3月11日(あさってだな)後の「無計画・意図的停電」の夜、外に出たら月のひかりが青白くて美しかったことを思い出しました。
2つめ、排泄物や灰が商品として流通していたという事実の話。「長屋の3点セット」は、水道、後架(共同便所)、ゴミ箱、排泄物は汲み取り屋が担いでいき、船で農村に運ばれ、発酵させてから農家に買い取られて肥料になる。そういえば、1950年代はじめまでは、東京都世田谷区の岡本(イッセーの生家)にも近所に「くそだめ」があったなー。柵もなくて、落ちた子供はくそまみれ。汚い話ですが、リサイクル都市ではあったかと思う。
3つめ、「経済とは、経世済民のこと、節約でもある。経済成長しなくても持続していた社会、それが江戸」という視点は正しいと思う。「経済がどん底に落ち込んだ時にやるべきことは2つ、戦争以外だと江戸の技術開発がヒントになる。」磁器、生糸生産は、江戸で始まった。自前の技術開発を多様な分野で行ったのが江戸時代だという。
考えてみたら講演会は、立川市と実行委員会(フミンやショウダン連のほか2つの生協も係っている)主催なんですよね。日本もまだまだこれからやねと感じました。「おながさんの講演会を法政でやりたい。」とおっしゃる彼女を、ぼくは信頼しています。日本の夜明けは地域からと思います。大学は地域にあってこそ、江戸の「寺子屋」を継承できます。ばらばらのようだけどすっきり筋が通っている教育、小さなことの積み重ねで作っていきたいと感じました。「さんきゅうハウス」って、江戸の長屋みたいでもあるなー。

田中さんは東京6大学では初の女性総長、そして法政大学では始めての手前味噌総長なのです。「翁長さんの講演会を法政大学沖縄文化研究会でやりたい。」とおっしゃっていました。何とかして実現させたいものです。砂川支部長より「沖縄は琉球に返せ」と訴えます。翁長さんは1975年法政大学法学部卒業、自民党菅さんも1972年同大同学部を卒業されている。母校で討論会やろうじゃん。どうですか菅さんのらないかい?
by issei_tachikawa | 2015-03-09 11:49 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
c0219972_21726100.jpgシバリョウタロウを思い出した。中根さん(元セカンドリーグ運営委員会委員長)のある瞬間の表情がそっくりだというコトをブログで書いたことも何かの縁かもしれない。

さて何か読もうかと書棚を探したが、なんと『最後の将軍』があるはずなのに見つからない。シバのシってのは、司か志かもこころもとない。つまり今までの人生で、彼の作品と出会うチャンスがあるようでなかったと言う事実を発見した。

そこで近所の本屋から『人斬り以蔵』を買ってきて一気に読んだ。といっても短編だからある意味とうぜんすぐに読み終えた。感想を1つ。武市半平太と西郷南州(タカモリ)の性格、人望比較が面白い。武市は、私生活においても清廉潔白、女関係に隙が無く、真面目な仕事人だが、周りに対しても厳しく、いつも彼の顔色を伺いながら仕事する人が多い。イゾウもその1人だった。

比べて西郷は豪放磊落、いつも先を読み、全体を見ながら、ユーモアまじえて人を組織していく。

武市はある意味、ステーブ・ジョブス的に描かれてぃる。いつも交感神経が過剰に緊張していて、周りにいる人間は気が抜けない。冗談が通用しない感じなのだ。仕事の成果は出るが、ストレスいっぱい、マイナス思考、体温は下がり、当然免疫力も下がる。がんに侵されやすくなる。なんのための仕事なのか?

話変わりますが、東大全共闘の一部(小阪修平さんなど)がやった、三島由紀夫さんとのバリケード内(教養部の209講堂)討論会をユーチューブで見た。三島さんの表情には、死を決意した人特有の吹っ切れた感じ(覚悟)がかいまみえる。笑顔やいいまわしが魅力的なのだが西郷どんのようなスケールと人望は感じられない。政治家と文学者、短絡させて比較しては双方に悪いのでこれでやめておくが、今に生きる西郷南州と考えたら2人が思い当たる。

山本哲郎さん、賀川豊彦さんである。いろいろ考えていたら、書店で『1968年』と題する小熊英二さんの本を見つけて立ち読みした。1968年のタタカイは実はこれからなのではないか?と感じる。ベトナム戦争に対して身を挺して反対した経験が、これから生きてくる。歴史の勉強は、今を問い直し、これからすみやすいチイキを創造していくための手段なのではないかと感じる。共にあゆまん。ゆっくりと大地に根をはりながら。
by issei_tachikawa | 2013-04-09 10:18 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
c0219972_7415878.jpgDVDを借りたのでさっそく2回見ました。

大川周明、ご存知ない方でも、5.15事件なら覚えているでしょう。彼は資金と拳銃を提供したというかどで逮捕されています。元満州鉄道総裁、日米開戦は文明論的必然(東西対立)としつつも、日中印の力合わせて経済共同体を築くべしと考えていた。
以前から日中開戦には最後まで反対抵抗していたと聞いていたので、その具体的な動きに興味がありました。

山本哲郎さんは大川塾の2期生で、90歳ですが記憶鮮明、体力も充分で、カンボジャ大使館勤務の傍ら日本全国から呼ばれて、「光機関」の動きについて話しています。学校では教われない事実を知れます。第二次大戦、太平洋戦争の理解が変わってきます。資本主義・社会主義・第三の道についての解釈(資本家、市場経済、貨幣・資本・国家論)も変化するはずです。

3つのことを感じました。
1つ、帝国主義侵略戦争という評価だけではことの本質は伝わらないなーと思います。以前からチャンドラ・ボース(インド国民軍)と光機関は共同してイギリス軍と戦った、目的は民族独立と聞いていました。DVDを見るとインパール作戦での敗北までの事実がよく理解できます。大川周明の南京陥落まえの国民党(蒋介石)との和平努力は失敗しましたが、これは国共合作、その後の市場経済化や一党独裁、漢民族以外含めた民主政治の評価につながります。

2つは、山本さんの話しと新藤兼人監督の話の総合です。世間の評価では、光機関を支持すれば右翼、新藤さんの方なら左翼となる。そんな表面的な見方を越えて、歴史と個人の事実・真実に迫りたいものです。

3つは、土壇場では上から崩れていくという事実。ベトナム戦争でも、サイゴン陥落直前はそうでした。インパール作戦でも上官は飛行機で先に逃げてしまう。身体の弱いものを自動車で逃げさせ、山本さんは最後まで現場に残って後始末をしたとのこと。

反戦の意思を伝えるやり方はいろいろあるのだなーと感じます。オスプレイの配備反対、米軍は日本を守ってくれません。

◎更に立ち入って調べる価値アリ:セッコウ財閥⇒蒋介石、宗3姉妹(?、男女不明)と孫文⇒抗日八路軍・蒋介石、張栄?・石原莞爾、大川周明会談、南京暴動阻止(日本軍による企業管理解除⇒民族資本育成)、ビルマ国民軍と光機関
by issei_tachikawa | 2012-09-24 07:42 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
c0219972_13363837.jpg経済産業省テント前でかんしょ踊り(福島県に伝わる盆踊り)が復活しているらしい。武藤類子さん、椎名知恵子さん(「原発いらない福島の女たち」リーダーの1人)らが呼びかけた。

「下品な歌詞もいっぱいあったので」けしからんという年配もいるらしいが、祭りには大なり小なりのエロスがつきもの。日常生活で「仮面」を被った庶民が、その日こそといわんばかりに自由な交流を深めて、枯れかかる気を復活させるチャンスなのだ。

それと権力者は庶民が自由につながり、自由にものを言い始めるて度が過ぎるのを警戒する。一面で秩序の維持に確信を持ってはいるのだが、反面では恐れも感じている。

明治維新前の戊辰戦争で会津藩、徳川幕府軍が破れてから、福島では(恐らく他の幕府側についた地域でも)踊りや祭りが禁じられたという。人々が自由につながって反乱する芽を摘んだ。会津に大きな祭りがないのもそのためではないかともいわれる。

原子力破壊発電所が密集してたてられている地域の歴史をたどると、明治維新なるものの正体やその後の急ぎすぎた経済成長の実体(誰が大もうけしたのか、いったい誰のためになったのか、何を獲得し何を失ってしまったのか)が見えてくる。

イッセーのひい爺さんは、徳川慶喜の「親衛隊」(足軽60人の隊長)だったという話しを、おやじ(鋭治、S50年に84歳で昇天)から聞いた。だからといわけではないが、「鳥羽伏見の戦いでなぜ幕府軍は敗れたのか」の理由に、史的唯物論の教科書的な答えを出して満足するようなことは避けたいと考えている。研究や学問の命は永遠のイフである。「もしもあのとき徳川が勝利していたら?」の仮説に自分なりの答えを出したいと思いながら、今日も脱原発について考えています。
◎写真は東京新聞20面「こちら特報部」よりです、ぼくも「かんしょ踊り」踊りたいなー。
by issei_tachikawa | 2012-09-03 13:18 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)
c0219972_2103752.jpg自分が日本人であること忘れてものをいう人がいる。主体の生命力は、現場で動かなければ風化して行く。感受性は磨かなければ腐る。主体と言うのは、具体的にいえば、共通の問題意識を持つ誰かに出会い、語り合い、つながって世の中(地球)を生き物が住み続けられるように整えて行く主体なのだ。

1918年、だったと思う。10月8日米騒動が全国に起きる。住井すえさんの『橋のない川』で、群集が米屋を襲うリアルな場面が描かれている。米屋の番頭は部落の出身者。群集のリーダーの一人で先頭に立っているのも部落出身者。お互いが良くわかっていてことを賢く運ぼうとするのだが、リーダーはぱくられて下獄してしまう。米騒動は本来の民衆一揆だったのだろうか?党派ややくざなどの組織が裏であやつっていなかったのだろうか?この問いに対する答えは推測でしかないが、恐らくイエスだろう。何時の時代にもどさくさにまぎれてと言う組織は生まれてくる。

日本人は各自が勝手に判断して街頭に飛び出して、お上に逆らう行動を通じて権力を後退させたことはない、といわれている。明治維新は徳川と薩長土肥の権力闘争、極東軍事裁判後の民主主義は帝国主義間の戦争に敗れた日本の支配階級が欧米戦勝国側に屈服した結果などなど。60年の岸内閣強行採決・安保改定阻止の国会突入は社会党共産党の指導を離れた学生と青年労働者によるものだし、1967年以降のベトナム反戦・大学解体と新しい学問創造の意志をバリゲードに表現した全共闘と反戦青年委員会のタタカイは結局は新左翼党派のリーダーシップを必要としていたし、民衆自身がそれぞれで自由に意志表現して立ち上がったという感じではなかった。(1968年10月21日の新宿、名古屋、札幌、大阪などでそれっぽい動きは見られたが)

3月11日以降はどうも様相が違ってきている。とくに高円寺の「素人の乱」4万人デモ以降は、子連れのお母さんでも楽に参加できて、太鼓やエレキをぶっ放して音楽で盛り上がるパレードが増えてきて、昔の名前ででています的なグループとうまく住み分けながら脱原発のデモが行われている。

日本人は用心深くなって入るが、実はデモンストレーションを求めているのかもしれない。ナニトウ政権でもアカンという鬱積した不満、マスコミなど信用できないと言う事実、蓄積する絶対的な貧困等々、人々を街頭直接行動に誘う要件はたくさんある。脱原発の切実な声を福島から、全国の地域から盛り上げて、直接的街頭行動も含めて多様な手段で面白く粘り強く続ければ大きな成果をもたらすと思う。
9.11で相川さんの長男坊とあったので、1985年の『三里塚NOW』(31号まで60名の友達に出していた)を読み返してみた。面白かったと自画自賛。日本人もなかなかだと思った。外は中秋の名月でした。
「ほら、月は昔を思い出すためにあるのだ。」(佐野洋子『ku:nel』2007.1.1 130ページ)
by issei_tachikawa | 2011-09-13 08:59 | 日本史:明治維新の過ちなど | Comments(0)